【 堀米屋敷跡 】 評価 ★
別 名: ―――
所 在 地: 高崎市綿貫町字堀米
築城年代: 16世紀
築 城 者: 堀米(堀籠)氏
区 分: 屋 敷
現 状: 宅地・耕地
16世紀、この地の土豪で武田信玄に属した堀米(堀籠)氏の屋敷として築かれたとされる。
屋敷北西から東南方向に井野川が流れ、北面と東面は3~4mの崖となっており、それなりの要害性は感じられるが、一方、西及び南側は平坦である。
烏川の水運を利用可能な地であり、西及び南が開かれているということは、武田氏に属し、和田あるいは倉賀野城に出仕していたことから防備は不要だったのではないかと考えられる。
※『和田記』に堀籠新左衛門の名が見えるとあるので、後日改めて確認してみます。
「高崎近郷村々百姓由緒書」の中に、堀籠大学が「信玄公より五十貫丈之所被置候、御感状壱通御證文壱通安藤右京進様御代御尋之節指上申候処紛失候由にて御返し不被下候」とあり、武田信玄から五十貫の知行が宛がわれ、感状(軍功を挙げた際の御礼状)も受け、大切にしていたのだが、高崎藩主・安藤右京進に由緒を尋ねられた際に紛失して返してもらえなかったという。
この安藤右京進=安藤重長という人物で、徳川家光の実弟・忠長を預り、書院番頭・寺社奉行・奏者番などを歴任した人物である。
こうした人物が堀籠氏にとって貴重な文書を紛失してしまったとは…。なんとも…。
屋敷の一角には、堀米家墓地があり、文安4年(1447)の宝塔をはじめ、室町・戦国期の五輪塔・宝篋印塔などが残されている。
( これが戦国期の五輪塔だと思われるが、年代は判別しかねるほど風化している )
こうした石造物が屋敷跡の歴史を物語っている。文安4年の石塔…さてどれだろう?墓地にはいくつか古い石造物があるが…。
『仏教考古学』で石塔・五輪塔・宝篋印塔の形状は学んだので判別出来るが、やはり紀年銘は風化しており、???である。
だが、『高崎市史』にも記されているのであるから確実にあるのだろう。ということは、堀米氏は室町期までは遡れる氏族であるということだ。
堀米氏は現在まで連綿と歴史を繋いでいるのだから、歴史の奥深さを感じられる。
遺構は皆無であるが、こうした城館跡も遺構が見事に残された城館跡と同様、訪れて欲しいものである。
なんせ、こうした遺構のない城館跡がそこかしこにあるんですからぁ!
(参考資料)
新編 高崎市史 資料編 3 中世Ⅰ