【 大澤備後守定吉屋敷跡 】 評価 ★
別 名: 下村北屋敷
所 在 地: 高崎市矢中町字下村北
築城年代: 16世紀
築 城 者: 大澤備後守定吉
区 分: 屋 敷
現 状: 宅地・耕地
昭和60年(1985)、長野堰土地改良区による矢中地区団体営圃場整備事業として高崎市教育委員会が発掘調査を実施している。
調査の結果、二重に堀が廻ることが確認され外堀を含め南北約69m、東西約65mの規模であったことが明らかとなっている。
施釉陶器、焼締陶器、土師質土器皿、石臼、宋銭などが遺物として出土している。
こうしたことから、この地に在地有力者の館があったと推測される。
さて、ここで問題となるのが誰の屋敷であるか?この地には矢中七騎の松本九郎兵衛を中心とした環濠屋敷群が存在していた。
『群馬県古城塁址の研究』では山崎一氏がこの地を大澤備後守屋敷地とし、隣接した屋敷(つまり発掘された現地)は松本屋敷としている。
これに対し『新編 高崎市史』では、この地は松本と記し、発掘された地が大澤備後守屋敷ということになる。
この点は微妙なところである(発掘調査でここは松本さんの家だよって明確にわかる遺物が出ればいいのだが、そのような事例はないに等しい)が、写真撮影の地は山崎一氏の大澤備後守屋敷地としたい。
立派な石碑も建立されていますからね。
16世紀、倉賀野氏寄騎であった大澤備後守によって構えられた屋敷である。この頃は倉賀野十六騎の一人に数えられている。
天正の頃には和田城主・和田業繁に属したようである。
天正3年(1575)、長篠の戦いで徳川軍の酒井忠次率いる軍勢の急襲を受けた鳶ヶ巣山砦の武田信豊救護に向かい、鉄砲に打たれて重傷を負った和田業繁らの退却を支援するため、栗原内記・松本九郎兵衛・秋山縫殿亮・長島因幡守・真下下野守・福島嘉兵衛とともに退口に踏みとどまり、織田・徳川連合軍の追撃を防いだことから、矢中七騎(あるいは和田七騎・退口七騎)と称された。
大澤備後守定吉をはじめ、和田業繁の嗣子である信業以下は死地を脱することに成功したのだが、業繁は戦傷によって信濃国で没している。
その後の大澤備後守定吉については、屋敷跡に建立された石碑によれば、天正19年(1591)、駿河国三枚橋合戦で討死したとされている。
これも問題にすべきであろう。
そもそも天正19年に三枚橋で合戦など起こるはずがないのである。後北条氏は前年に滅亡しているし、豊臣秀吉による天下統一の最中、駿河国で戦乱などあろうはずがない。
こう考えると、石碑に刻まれたことは信用に値しない。大澤備後守定吉のその後は詳細不明というべきであろう。
しかし何故?石碑を建立した方はそのように刻んだのであろうか?
祖先を顕彰するために建立したのでろうから、古文書にそのようにしるされていたのであろうか?だとしたら、偽文書である可能性が高い。
様々な問題点は挙げられるものの、名もなき城館跡に石碑が建っていることは喜ばしいものである。
(参考資料)
新編 高崎市史 資料編3 中世Ⅰ
現地建立石碑