會津八一は、明治14年(1881)、新潟の古町の遊郭・會津屋に生まれた。
早稲田大学で小泉八雲の講義を聞き、ギリシャへの憧れを抱き、古き良きモノへの傾倒から奈良への憧れを抱くようになった。
八一は生涯に35回奈良に来訪しているが、大正10年(1921)そして大正11年(1922)の秋に喜光寺を訪れている。
八一は荒廃した喜光寺を目の当たりにして、悲しさに心が打ちひしがれて
ひとりきてかなしむ てらのしらかべに
汽車のひびきの ゆきかへりつつ
と詠んでいる。(『南京新唱』掲載)
『自註鹿鳴集』の中で八一は、「この歌を詠みしは、この寺の屋根破れ、柱ゆがみて、荒廃の状目も当てかねし頃なり。住僧はありとも見えず。境内には所狭きまでに刈稲の束を掛け連ねて、その間に、昼も野鼠のすだくを聞けり」と記している。
往時は荒廃していた喜光寺であるが、令和を迎えた現在では立派な伽藍が整備されている。
歌碑は平成22年(2010)、喜光寺に會津八一の歌碑を建てる会の協力によって建立されている。
會津八一に関しては、奈良大学通信教育部スクーリング『奈良文化論』で少々学んでいたし、中宮寺や猿沢池などの會津八一歌碑にも訪れている。
喜光寺散策で歌碑を見た時、スクーリングで学んだことを思い出しました(^^♪
(参考資料)
奈良大学通信教育部スクーリング『奈良文化論』配布資料
喜光寺配布パンフレット
現地案内板