【 稲葉佐渡守正成屋敷跡 】 評価 ★
別 名: 不破壱岐守屋敷?
築城年代: 慶長15年(1610)頃
築 城 者: 稲葉佐渡守正成
区 分: 屋 敷
現 状: 金峯神社
慶長15年(1610)頃、羽島・本郷城主であった稲葉佐渡守正成の屋敷として構えられたという。
正成はもともと林氏であったのであるが、稲葉氏と林氏との間で領地争いが起こり、その結果和睦した際、稲葉重通の婿養子として迎えられ稲葉氏となった。その後、重通の娘に先立たれた正成に重通は姪の福(のちの春日局)を養女とし、正成に嫁がせている。
義父である重通とともに豊臣秀吉に仕えるが、秀吉の命で小早川秀秋の附家老として5万石を与えられ、四国攻めや小田原征伐、さらに慶長の役で活躍している。
慶長5年(1600)、関ケ原の戦いの際には、同家老・平岡頼勝とともに徳川家康に内応。黒田長政・山岡道阿弥らに石田三成の動向を伝えるとともに主君・小早川秀秋を東軍に寝返らせ、大谷刑部少輔秀継らを討ち取るなど、戦後家康から称賛されています。
慶長6年(1601)、小早川秀秋との意見の食い違いから、一族とともに美濃に帰り閉居。
慶長7年(1602)、小早川秀秋は乱心を理由に改易されると浪人となった。同年、京都所司代・板倉勝重による徳川秀忠嫡男・竹千代(のちの徳川家光)の乳母の募集に福が志願し採用されると、福と離縁している。
福との離縁についてはさまざまな説があるが、その後家康から召し出され、家康の旗本となり、慶長12年(1607)、美濃・本巣1万石を拝領し、十七条藩を立藩している。
その後、松平伊予守忠昌の附家老となり、大坂の役で戦功を挙げたことで、元和4年(1618)には、越後国糸魚川2万石を与えられている。
このことから考えると、秀秋から離れ、美濃閉居した慶長6年から、糸魚川に領地を得た元和4年の間で、屋敷は構えられていたと推測出来る。
しかし、慶長12年には十七条藩を立藩しているのであるから、この地に屋敷地を構えるというのにも疑問が残る(とはいえ、十七条藩はここから北に10㌔程の距離ではあるが…)。
仮に正成には側室として藩邸に置けない女性が居たのかもしれないと考えれば、この地に屋敷を構えたとしても不思議ではない。
いずれにせよ、正成が美濃を去った際に屋敷は廃されたのであろう。
一説では不破壱岐守の屋敷であったともされる。不破氏は竹ヶ鼻城や氷取城一帯を領有していたことから、不破氏の一族である壱岐守なる人物の屋敷であった可能性も捨てきれない。
さて、屋敷跡の遺構であるが…皆無である。森部城跡である森部公民館との間には溝があるが、これを堀跡と考えるには森部城の縄張を考察する必要がある。
森部城跡も遺構は皆無であり、遺構はないと考えた方が良いかもしれない。
金峯神社には「稲葉佐渡守屋敷址」と記された石碑があるのが、城巡りをする者にとっての救いであろう。
(参考資料)
現地案内板
金峯神社石碑