【 戸田権左衛門の墓 】
戸田権左衛門政純は、承応元年(1652)、大垣藩主・戸田氏に連なる名門、家老戸田正俊の子として生まれた。
寛文10年(1670)、父の死去により上席家老となった。
政純の事績として名高いのは、元禄14年(1701)、江戸城松の廊下において赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が高家・吉良上野介義央を刃傷に及び、長矩は切腹の上、赤穂城は接収の断が下り、長矩と母系上従兄弟にあたる大垣藩主・戸田氏定が、赤穂城受け取りの幕命を受けることとなった。
この際の赤穂城受け取りの正使となったのが戸田権左衛門政純であった。
この城の明け渡しの使者は簡単なものではない。主君が切腹し城内の赤穂藩士は籠城を唱えるものも多く、一歩間違えば戦闘に発展しかねなかった。
政純は、赤穂藩家老である大石内蔵助良雄、大野九郎兵衛らと折衝を重ね、無事に赤穂藩無血開城を成し遂げている。
享保元年(1716)、64歳で病没し、この地に葬られた。
地域の偉人ではあるが、全国的には知られていない人物であろう。しかし、地域史あっての日本史である。
戸田権左衛門は赤穂事件に関与した人物であり、大垣のみならず赤穂にも足跡を残したのである。
(参考資料)
現地案内板