【 白旗塚古墳 】
所在地: 足立区東伊興3-10-14 白旗塚史跡公園内
毛長川右岸の自然堤防上に築かれ、直径12m、高さ2.5mの六世紀頃の古墳時代後期に築造された円墳である(詳細な発掘調査は行われていないことからいずれも推定である)。
江戸時代後半に記された『日光道中分間延絵図』には、兜塚・二本松塚・駒形塚・擂鉢塚・庚申塚ほか名称未記載三基、計八基の古墳が並ぶ姿が描かれている。
白旗塚古墳は二本松塚として記され、このことから伊興古墳群を構成していたものと推測されている。
その後、土地開墾や都市開発などに伴って消滅が進み、昭和39年(1964)、土地改良事業による都市開発の過程で白旗塚古墳以外は全て破壊されてしまった。
白旗塚古墳という名称であるが、『新編武蔵風土記稿』によれば、康平5年(1062)、奥州の安倍氏討伐に向かった源義家がこの地で白旗を立て戦勝を祈願したという逸話から名付けられたとされる。
古くからこの塚に近寄れば祟りがあるとされ、付近の村人は塚に近寄ることはなかったのであるが、ある時、塚の上の古松が大風で倒れ、その根元から古墳時代の武器・武具といった遺物が出土したという。
この時、太刀などを持ち帰った村民一家が大病に罹り、村民は祟りと言って恐れおののき持ち帰ったものを塚下に埋め戻して、松を埋めなおしたという逸話も残されている。
この逸話から、毛長川流域の古墳でよくみられる石室主体部がない古墳と推測される。
現在では、白旗塚史跡公園として整備保存されているが・・・白旗塚古墳が今日までその姿をとどめることとなった遠因と考えられる。
発掘調査が行われていないのも逸話によるものであるのかは定かではないが、将門塚の祟りもあることから調査が躊躇われているのかもしれない。
付近には「伊興遺跡」など遺跡も多く、相互の直接的関係は不明ながらも毛長川の水運を利用した古代文化圏が存在したことも推測される。
(参考資料)
東京の古墳を歩く 大塚初重 監修 祥伝社新書
現地案内板