【 春日社跡 】
吉井陣屋の西南隅にかつて祀られていた春日神社の跡である。
吉井藩祖・奥平信平は、駿河大納言・徳川忠長の一子である長七郎長頼の忘れ形見と伝えられ、その後藤原氏の直系であり公家の名門・関白鷹司信房の養子となった人物である。
延宝2年(1674)、信平は上州碓井・群馬・緑野・多胡、上総長柄・夷隅の6郡内7,000石を封じられ、吉井藩を立藩した。
信平は藤原氏の氏神である春日神社を勧請し、陣屋内に祀ったという。
『島高堅自記』によれば、寛政3年(1791)7月に勧請され、寛政5年(1793)、御神体・御鏡などが京都から御勧請され、大工棟梁彦兵衛が御供したとある。春日社はこの時に創建されたという。
この時期の藩主は七代・奥平信成であり、陣屋内の小祠を整備したとも読み取れる。
明治41年(1908)、八幡宮も合祀されたのであるが、その後廃れたものと思われる。
この地は城館巡りをするものにとっては「吉井陣屋跡」となるのだが、多くの人は移築陣屋門のみ訪れ、春日社跡は訪れていないのではないだろうか。
春日社跡のあった地は古墳跡とされるが、物見としても活用はされたであろうことは想像に難くない。
移築陣屋門だけではなく、春日社跡も踏査し、かつての陣屋に思いを馳せてもらいたいものである。
(参考資料)