【 馬場塚五輪塔地輪附馬場塚 】
所在地: 生駒郡安堵町中窪田
甲斐国武田信玄の重臣で武田二十四将の一人である馬場美濃守信房の供養塔と伝わる。
周辺には馬場性が存在し、その先祖の墓であるとか、塚から刀が見つかったという伝承が残されています。
もともとは木々の茂る丘の上に石造物の残欠が散らばっていたものが、平成25年(2013)、周辺が整備されました。
五輪塔は空・風・火・水・地の五要素から成り、地輪の四面に、天正3年(1575)5月21日の紀年銘があります。
銘文は平ノミや針ノミなどで活字状の字体で彫り込まれていることから、中世末期の石材を使用して近世以降に刻まれたものと推測される。
( 銘文 )
東面 前敬礼司 氏勝墓 民部少輔
南面 甲陽武田家臣百廿騎之大将仕信虎公信玄公勝頼公而有戦功後依信玄公之命
改馬
西面 馬美濃守信房矣戦于三州長篠引率七百人初戦既得勝敵者多勢而十倍於味方
勝頼
北面 公諸勢不得防而敗北於是美濃守 討死于時天正三乙亥年 五月廿一日
この銘文を見る限り、甲斐国から遠く離れた大和国に馬場美濃守の供養塔があることは理解出来るのではないか。
では何故この地に供養塔が建立されているのか?が問題となってくる。
考えられる説は以下の3つである。
① 大正5年(1916)の「神社調査書」には、馬場美濃守信房の子・馬場脇之進
信久が長篠の戦以降大和国に落ち延び塚を築いたとする説。
馬場塚北には以前、春日神社があり、そこには信久が馬場氏長久のために祀った
ことや、馬場美濃守信房のために墓碑を造ったことを示した記録が残されていた
という。
② 郡山城主・筒井順慶は長篠の戦いに鉄砲隊を派遣。その隊のリーダーは中西伊予
という人物で、王子周辺に所領があったらしく、中西氏が信房の関係者に遭遇し
連れ帰り、この地に居住させたのだとする説。
③ 窪田地区には中家住宅があり、中家は元武士で筒井氏に仕えていたことから、長
篠の戦いに従軍。信房の関係者に遭遇し連れ帰ったとする説。
いずれの説もにわかには信じがたいものではあるが、この地に馬場美濃守信房の供養塔があるのは事実。これも歴史のミステリアスな一面ではないだろうか。
馬場脇之進信久なる人物が如何なる身分の人物であったのか?
長篠の戦で武田勝頼が大敗したことは事実であるが、筒井家中の者が敗残兵を大和まで連れ帰るなど可能であったのか?
そもそも馬場家のものであるならば、甲斐に落ち延びるのではないだろうか?
この「馬場塚五輪塔地輪附馬場塚」から考えられることは多く、非常に稀有な史跡である。
(参考資料)
現地案内板