日本史跡研究会 日々の徒然~埋もれた歴史を訪ねて~

日本各地の埋もれた史跡などをご紹介致します。また、日本史跡研究会の活動についてもご紹介しております。

松井田城補陀寺館跡(群馬県安中市)

 

  【 松井田城補陀寺館跡 】     評価 ★

 

   別  名:   松井田城補陀寺郭

   所  在  地: 安中市松井田町新堀1186

   築城年代:  天正10年(1582)

   築  城  者:   大道寺駿河守政繁

   区     分:     居 館

   現  状:       補陀寺・山林

 

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 松井田城は古くは諏訪城と呼ばれており、松井田西城(金剛寺)が跡地であるとされる。

 

 安中忠清の子である忠政は野尻(安中城)に城を築き移り、更に松井田城を改修したという。安中城には嫡子である忠成を入れ、自らは松井田に居した。

 

 天文年中(1532~1555)から武田晴信と争うようになり、弘治3年(1557)、忠政は長野業政と合力して瓶尻(一説では人見原)で武田勢と戦っている。

 

 永禄7年(1564)、武田勢の侵攻によって安中を守る忠成は降伏。忠政は屈強に抵抗したのち開城し自刃させられた。

 

 さて「松井田城補陀寺館」であるが、天正10年(1582)、武田氏滅亡で織田信長家臣で厩橋城主・滝川一益の臣である津田勝正が手勢2000をもって守備するが、本能寺の変で信長が横死すると、北条氏政・氏直父子は上州に侵攻。松井田城を攻略して、重臣・大道寺駿河守政繁を入れて信濃国の徳川勢に備えさせている。

 

 これまでの松井田城の大手道は城の東側にあったのであるが、政繁入城後は城下町を整備し新道を開いたことで、南側のこの地に居館を新たに築いたとされる。

 

 天正18年(1590)、豊臣秀吉による北条征伐が始まると、北國勢(前田・上杉・真田等)は松井田城に押し寄せる。

 政繁は1ヶ月に亘り城を支えるが遂に降伏。各地を転戦させられた末に自決させられました。

 補陀寺館は兵火🔥によって焼失(補陀寺も併せて焼失)。その後、補陀寺は再興されています。

 

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群馬県史料集 別巻(1) 古城誌編』に補陀寺について詳細に記載されており、「此寺は山城跡なり・・・・。」とある。

 

 (参考資料)

   信濃をめぐる境目の山城と館 上野編   宮坂武男   戎光祥出版

   現地案内板