【 田ノ口館跡 】 評価 ★
別 名:
所 在 地: 佐久市田口字五庵2893
築城年代: 室町時代?
築 城 者: 田口氏?
区 分: 居 館
現 状: 蕃松院
応永7年(1400)、『大塔物語』(大塔合戦の記述)に伴野・平賀・望月氏らとともに田口氏の名が見られ、これが史料上の初見である。
『諏訪御符札之古書』には、長禄4年(1460)に田口民部少輔長秘、応仁元年(1467)に田口長綱、文明9年(1477)に田口民部少輔長綱、長享3年(1489)に田口山城守長慶の名が見られる。
この田口氏は田口城(田ノ口城)を詰城としていたが、その居館(根小屋)がこの地であったと考えられ、室町時代には「田ノ口館」は構えられていたと考えられている。
天文17年(1548)、上田原合戦で武田晴信が村上義清に敗れた混乱に乗じて、田口長能が武田に反旗を翻すも失敗💦ここに田口氏は滅亡する。
その後、相木氏の流れを汲む依田能登がこの地に入る。能登もこの地を居館としたと推定されている。
天正10年(1582)、武田氏が滅亡すると、依田能登は北条に属することとなるが、依田信蕃が徳川に与力して佐久平定に取り掛かったことから、能登は上州へと逃亡。
『依田記』によれば、信蕃はこの地に居館を構えて家臣を招き祝宴を行ったという。
しかし天正11年(1583)、信蕃は佐久・岩尾城攻めの際に、弟である源八郎とともに鉄砲に打たれて戦死💦💦💦
その子である竹福丸は松平康国と名乗り、小諸5万石の城主となり、父・信蕃追福のために館跡地に蕃松院を創建したという。
蕃松院本堂裏手には、信蕃の墓と伝わる五輪塔が残されているのだが、この日は訪問しなかった💦
佐久には行く機会が多いので、また改めて訪れたいと思う。
(参考資料)