【 長屋王邸跡 】
所在地: 奈良市二条大路南1-3-1
昭和61年(1986)、現在の奈良文化財研究所により、大型商業施設建設に伴う発掘調査が開始された。
そして昭和63年(1988)1月12日、出土した木簡から、この地が奈良時代初期の皇族政治家である長屋王の邸宅跡であると発表された。
出土した木簡は、長屋王家を支えた家政機関に集まったものであり、約4万点を超えた。木簡からはそれまでの文献史料では解り得なかった王侯貴族の家の中の人や物の動きを具体的に明らかにするものであり、考古学史上重要な発見となった。
長屋王家木簡は、奈良時代の公地公民制が大宝律令制定の後に完成に至ったという従来の定説を覆し、奈良時代を考察する上での第一級史料としてデータベース化されており、我々も気軽に見る事が可能である。
奈良文化財研究所 データベース
https://www.nabunken.go.jp/research/database.html
長屋王は、天武天皇の第一皇子である高市皇子の長男として生まれたことから皇親として嫡流に非常に近い存在であり、出土木簡にも「親王」の文字が見られ、それを裏付けている。
養老4年(720)、権勢を誇った右大臣・藤原不比等が没すると、舎人親王とともに皇親政治を行い、公民の困窮対策を講じて社会の安定化・律令制の維持を図った一方で、蝦夷・隼人の反乱への迅速な対応も行っている。
長屋王治世においての重要な施策として開田が知られ、養老6年(722)には「百万町歩開墾計画」、養老7年(723)の「三世一身法」は教科書でも習うのでご存じではないだろうか。
しかし、やがて藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)と対立し、神亀6年(729)、漆部君足・中臣宮処東人の密告により、藤原宇合らの兵に邸宅を取り囲まれる。
『兵防令』差兵条には20人以上の兵士を動員する際には天皇の契勅が必要であり、聖武天皇の許可を得てのことであった。
『獄令』決大辟条には、皇親および貴族は死罪の代替として自尽を認める規定があり、長屋王は糾問の結果、自殺した。世に言う「長屋王の変」である。
『続日本紀』には誣告と記されており、平安時代初期の朝廷では、長屋王が無実の罪を着せられたことが公然の事実となっていたようである。
長屋王邸宅は、平城宮の東南隅に位置しており、現在でいうところの首相官邸の機能であったと思っていただければ良いのではないか。
奈良そごう → イトーヨーカドー → ミ・ナーラと地元では長屋王の祟りとも言われる大型商業施設の遍歴である。大型商業施設は変われども、大地に刻まれた歴史というものは変わらない。それを感じさせてくれる史跡である。
(参考資料)
現地案内板