日本史跡研究会 日々の徒然~埋もれた歴史を訪ねて~

日本各地の埋もれた史跡などをご紹介致します。また、日本史跡研究会の活動についてもご紹介しております。

真政(実正)の渡し跡(群馬県前橋市)

 

  【 真政(実正)の渡し跡 】

 

   所在地: 前橋市小相木町

 

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 江戸時代、高崎城下の江木新田口から前橋を経て野州(現在の栃木県)方面に通じる前橋日光往還(通称:あずま道)があり、高崎藩の記録『無銘書』三十三には、「厩橋江三里寅卯ノ間道筋 江木、貝沢、井野、上新保、下日高、稲荷新田、新保田中、箱田、後家、小相木、内藤分、大渡舟番所アリ」と記載されている。

 

 下相木と宗甫分村(現在の前橋市南町)の間にあったのが、「真政(実正)の渡し」である。この街道は真政(実正)街道と呼ばれ、元和2年(1616)には下目付1名、足軽2名が詰めた真政関所が置かれた。

 

 渡し船の定員は45人で、水かさの多いときには34、5人に減らしたとされる。馬一頭は人間7人と計算し、荷物量に応じて乗船人数を減らしていた。

 

 天明3年(1783)、浅間山大噴火🌋では泥流がこの地まで押し寄せ、関所は流失被害にあったという記録が残されている。

 

 『松平藩日記』には、江戸時代末期、この地を離れる農民が多かったことから、農家の次男・三男に助成を与え、新建百姓として農業従事者を増加する策を実施し、結果として天保5年(1834)、宗甫分村には民家10軒、米三俵を上納出来るようになったと記録されています。

 

 明治3年(1871)、真政船橋が架橋されたことで渡し船は廃止。

 

 明治12年(1879)には、社会事業に尽力した宮内文作らが発起人となり、長さ170間(約300m)の就安橋が完成(しかし、秋には流失💦)、その後、初代利根橋・二代目利根橋を経て、昭和53年(1878)、南部大橋が完成しています。

 

 

 さて、真政(実正)の渡し跡を訪ねたあとで気になったのは、「真政関所」。

図書館で真政関所の詳細な位置を調べてみましたが???

 大渡関所なんてのもあったんですが、更なる資料調査が必要かな💦💦

 

 関所(川番所)も城館含むよねぇ💦と都合の良い解釈をしているので、調査を継続して明らかにしたいです(^^♪

 

 (参考資料)

   前橋市史 2 近世編 上