日本史跡研究会 日々の徒然~埋もれた歴史を訪ねて~

日本各地の埋もれた史跡などをご紹介致します。また、日本史跡研究会の活動についてもご紹介しております。

善龍寺の内藤塚(群馬県高崎市)

 

  【 善龍寺の内藤塚 】

 

   所在地: 高崎市箕郷町生原1418

 

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 箕輪城主・長野業政が施主となり、先代・長野信業の供養と笛吹峠(碓井峠)の戦いの戦没者慰霊のため、補陀寺の僧・顕山敬応上人を開山として創建されたのが善龍寺である。

 

 弘治2年(1556)、福田五郎左衛門(長野氏一族)が大檀那となり、父・長野吉業の病気平癒の祈願寺として補陀寺第十二世・的応守的大和尚を二世開山として迎えており長野氏との関わりは強い寺院であった。

 

 永禄に入ると、甲斐の武田信玄の西上州侵攻が本格化。永禄6年(1563)2月10日、福田五郎左衛門が陣取っていた善龍寺も兵火🔥で焼失し、五郎左衛門も陣没した(なお箕輪落城はその12日後のことである)。

 

 箕輪落城後、信玄は重臣・内藤修理昌豊に統治させ、善龍寺を再建している。

 

 天正3年(1575)5月、長篠の戦いで昌豊は討死。その子・内藤昌月は遺骸を奉じて善龍寺に埋葬。

 

 昌月は武田氏滅亡後は後北条氏に属したが、天正16年(1588)に逝去し、父の側に葬られたと伝えられている。

 

 塚は向かって右側が内藤昌豊、左側が昌月と伝えられ、後世になり内藤塚と呼び伝えられるようになったという。開基塚とも呼ばれる。

 

 (参考資料)

   現地案内板