令和2年(2020)9月6日(日)、群馬県沼田市西倉内町・沼田公園の「沼田城跡」発掘調査現地説明会が行われました。
( 発掘調査地の様子 )
今年度の調査では貴重な成果を挙げております。
まず、沼田城本丸堀の位置と規模が確認されています。
( 白線より奥が「本丸堀」)
本丸堀は、旧テニスコートの高さで幅28.1m、深さ3.8mあることが確認されました。当時の堀幅、深さはさらに大きかったものと考えられます。
令和元年度の本丸内での調査で確認されている破城時と考えられる面からは、深さ5.6mになります。
本丸堀南壁には、犬走状の平坦面が一段存在することも判明しました。それが写真で硬化した平坦面とある場所で、人が移動するために備わっていたものであるのか、明治時代以降払い下げられてから利用されたものかは不明です。
( 本丸堀の遺構 )
南側は大量の土砂で埋め戻されており、土砂からは幕末から近代の陶磁器が出土しています。
次に、沼田城破城時の状況を表す瓦が検出されました。
天和2年(1682)、真田氏改易時、建物や石垣等は解体されましたが、第1トレンチの本丸堀内から、本丸側から堀に投げ込まれた状況の大量の瓦が出土しており、破損が少なく、折り重なるように出土していることから、不要となった瓦を一括して投棄したものと考えられます。
本丸南東隅は三重櫓が建っていたことが絵図から明らかなので、三重櫓の瓦が投棄されたと考えられます。
軒丸瓦、軒平瓦、丸瓦、平瓦、鬼瓦、鯱瓦が出土し、また鉄釘、鎹も検出しています。
瓦の上には、石垣に使用されていたと考えられる礫が堆積しており、瓦等を投棄したのち、石垣上部を壊したものと推測できます。
第三に、本丸堀の南側から「正保国絵図 上野国沼田城絵図」に描かれていない堀跡が検出されました。
この堀跡は、複数回作り直されており、最終段階は出土遺物から16世紀末から17世紀初頭に埋め戻されたと考えられます。
この時期は、真田氏が沼田城を得て、真田信幸が盛んに城の整備を進めていた時期にあたり、この堀は1500年第末頃と推定されます。
( 出土遺物の一部である「軒丸瓦」)
コロナ禍のなか、なかなか発掘調査現地説明会も開催されない状況であったが、久々の参加となった。
通常とは異なり、調査担当者の話はなく、配付資料を基に自由に遺構を見てもらうという形態であった。
訪れた時間に丁度、東吾妻町教育委員会の吉田智哉さんもいらっしゃり、挨拶。沼田市教育委員会文化財保護課長の宮下昌文氏にも御挨拶出来た(^^♪
今日も収穫いっぱいの一日でした(^^♪