【 小川陣屋跡 】 評価 ★
別 名:
築城年代: 寛永15年(1638)頃
築 城 者: 真田伊賀守信澄(信直)
区 分: 陣 屋
現 状: 宅地・耕地
寛永15年(1638)、真田熊之介(真田信之の庶長子である信吉の長子)が幼くして病没したことによって、松代藩主・真田信之は、信利の叔父にあたる信政に沼田15,000石を与えるとともに、信澄には5,000石を分知した。
信澄、この時3歳であったことから、信之の処置としては正しいものであったのだが、これが後の相続争いへと繋がることとなる。
かつての「小川城」二の丸に陣屋を構えられ、信澄は母と共に明暦2年(1656)まで居住している。
同年7月、信之の隠居によって信政は松代藩主となり、同9月、信利が沼田及び上田領を領有することとなった。沼田城へと入城した信澄は「小川陣屋」を廃したと思われる。これで、陣屋の短い歴史は終わるのであるが、その後の流れも軽く触れておくこととする。
おっと💦ここで誤解しないでもらいたいのだが・・・、沼田及び上田を引き継いだとはいえ、信澄は沼田藩主ではない💦信澄は松代藩主・真田信政の領地を預かっていたに過ぎないのである!!
明暦4年(1658)2月、真田信政が没したことに真田家相続争いが勃発💦まだ存命であった信之は、幕府に信政の子である幸道を後継者として届け出たのだが、信澄は「真田家の正式な後継者は自分である」と幕府に訴え出たのだった💦
結果、幕命によって松代10万石は真田幸道が継ぎ、信澄は沼田3万石を分離独立させられ、正式に沼田藩主となったのである。
信澄は松代藩に対抗心を燃やし🔥拡大検地を実施し実高14万4千石を強引に打ち出し幕府に報告(改易後、幕府によって改めて行われた検地では実高6万石であった)。
高率の年貢を課せられた領民は、幕府に困窮を直訴したことで沼田藩は改易されるに至るのであった。
陣屋跡とされる場所には案内板があるものの、遺構はない。「小川城」二の丸を使用していたことから、かつての城の掘割を利用したとも考えられる。
あっ、俗に真田信澄は「信利」とも称される人物ですが・・・、史料上で「信利」と名乗ったことはないことも注記しておきますね(^^♪
(参考資料)
日本城郭体系 4 茨城・栃木・群馬 新人物往来社
新編 藩史総覧 秋田書店
現地案内板