【 磯貝雲峰の碑 】
磯貝雲峰は慶応元年(1865)、九十九村下増田百石(現在の安中市松井田町下増田)の内田仁八郎、ムラの三男として生まれ、名は由太郎という。14歳のとき、郷原にある母・ムラの生家の養子に迎えられて磯貝姓となった。
細野東小学校の校長であった柏木義圓のすすめもあって、明治18年(1885)、同郷の新島襄の同志社英学校に入学し、徳富蘆花らとの親交を深めている。
同志社英学校時代の雲峰は実家からの仕送りも少なかったようで、手紙の中で「服や食事は良いから勉強するための洋書を買うお金を送ってぇ」と懇願している。実際、新島襄に支払う授業料も滞っていたようで、英学校の門番をするなどしている。
また徳富蘆花とのエピソードで、別れの際に貧乏だから餞別は送れないとうどんを奢ったとの逸話が残されている。
※ 徳富蘆花『黒い眼と茶色の眼』で「片貝芳太郎」という名で登場していますので、
興味がある方はお読みくださいm(__)m
明治22年(1889)、同志社英学校卒業後には明治女学校、名古屋・金城女学校などで教職を勤める傍らで各種文学誌に詩歌・小説・評論・訳詞を寄稿し、石川啄木らの注目を集めている。
明治28年(1895)、英文学研究のため渡米し、新島襄も学んだウィスコンシン大学で研究に勤しむも、結核にかかり帰国💦
明治30年(1897)、32歳の若さで没した。
「磯貝雲峰の碑」は生家の西にあり、松井田城の銘石である亀石の表面に「君資性温厚、人と争わず、物を競わず・・・」と略歴が刻まれ、裏面に代表作である歌
早蕨を折りし昔よ偲ばれて 恋しくなりぬふるさとの山
と刻まれている。
墓は安中市郷原の自性寺にあるが・・・、御住職に聞かなければどの墓が磯貝雲峰のものかは判別出来ないだろう。
(参考資料)