【 膳城跡 】 評価 ★★★
別 名:
所 在 地: 前橋市粕川町膳字大門、城内
築城年代: 嘉吉年間(1441~1444)
築 城 者: 善 氏
区 分: 平 城
現 状: 膳城址公園・耕地・宅地
『吾妻鏡』にみられる善康有、善康長、善盛村がこの地に居していたは定かではない
が、享徳4年(1455)、鎌倉公方方の赤堀時綱が襲撃した善信濃入道の在所はここ
であるとされる。善氏は鎌倉幕府重臣・三善康信の末裔とされる。
文明年間(1469~1487)頃、佐野周防守助綱の前に善・山上氏はこの地を追
われており、武州五十子に在陣していたが、長享2年(1488)、金山城主・横瀬業
繁の援助を受けて善氏は城を奪還。膳城は金山城の属城となった。
天文13年(1544)、善因幡守は妹婿細川内膳夫妻が桐生祐綱によって滅ぼされ
た報復のため、桐生に出兵🏇しかし、間の原の戦いに敗北し桐生の幕下に降った。
永禄5年(1562)、上杉謙信の越山によって、後北条氏方であった膳城は攻略さ
れるも、謙信が関東から離れると再び後北条方に属しており、その後、由良(横瀬)・
上杉・後北条と所属が目まぐるしく変遷している。
永禄11年(1568)、善備中守宗次は謙信に従い、謙信幕下の荻田備後守ととも
に伊勢崎城を攻略するも、元亀元年(1570)、小俣城急襲の際に討死している。
小俣・足利・金山勢は直ちに反撃し膳城を乗っ取り、大胡民部左衛門が膳城を守備す
ることとなった。
天正2年(1574)、上杉謙信は膳城を再度手中に収めると、武州・羽生城主・木
戸忠朝、菅原為繁ら1,000余騎を引き取り、膳・山上両城に置いた。
天正6年(1578)、謙信が没すると、後北条氏の手に落ち、城代として河田備前
守が入城する。
( 「本丸」 )
天正8年(1580)、武田勝頼が上州に侵攻。厩橋城を接収し、この地の巡検を平
服でしていた時、膳城内で酒盛りが行われており、酒に酔った一部の城兵が武田軍の倉
賀野秀景に襲い掛かってきたという(玉村五郎兵衛なるものが、渋川主膳正と口論を始
め、那波、伊勢崎、片岡の敗残兵と喧嘩になったという)。勝頼は直ちに応戦し、河田
備前守らを討ち取り城を占拠したとされる。この時、勝頼は平服のままであったことか
ら、世に「膳城の素肌攻め」と称されるようになったという。
一説には長篠合戦の生き残り・原隼人佐昌勝はこの戦いで再び傷つき没したとされ
る。
菅原為繁ら羽生衆は勝頼を頼り、旧領回復を画策するも、木戸忠朝は越後にあったこ
と、また天正10年(1582)には武田氏滅亡もあり目的は達せられなかった💦その
後は後北条方になった。
天正18年(1582)、小田原の役の際に前田・上杉・真田ら北國勢の前に開城。
その後、廃された。
なお、羽生衆の祈願は一部達成したようであり、役後に武州騎西城主に木戸右衛門佐
が任じられたが、右衛門佐は菅原為繁の後身であったという。
( 「良好に残される空堀」 )
『上野国風土記』には「善城は木戸玄斎の古城」とあるが、玄斎は伊豆守とも大炊頭
とも号した人物で、舞木駿河守持秀家臣・木戸伊豆とは別人と思われる。玄斎はのちに
庄内・藤島城代となった人物である。
また『桐生地方史』には、膳城主・大沢下総守政光とあり、天正末年、由良氏が政光
に膳城を与えたものと考えられている。
膳城跡は曲輪・土塁・空堀等の遺構が良好に残されており、中世城館跡の姿を今に伝
える好例であり、「前橋市粕川歴史民俗資料館」駐車場を利用してゆっくり散策が可能
である。
城塁には折れが随所に見受けられるなど技巧的に優れていることから、武田による改
修説もあり、見どころは多い城跡です。
付近には「山上城跡」などの中世城館跡などもありますから、併せて見学をお薦め致
しますm(__)m
(参考資料)
日本城郭体系 4 茨城・栃木・群馬 新人物往来社
現地案内板