【 田原本陣屋跡 】 評価 ★
別 名: 平野氏陣屋
築城年代: 寛永12年(1635)
築 城 者: 平野長勝
区 分: 陣 屋
現 状: 田原本町役場・宅地
天正11年(1583)4月、羽柴秀吉VS柴田勝家の賤ヶ岳の戦いにおいて、賤ヶ
岳七本槍の一人に数えられた平野権平長泰は、文禄4年(1595)、大和国十市郡内
七ヶ村において5千石を与えられている。
田原本は富田の浄土真宗寺院である教行寺に寺内町を築かせて、この地の統治を委ね
ている。
慶長5年(1600)、関ケ原の戦いでは徳川家康率いる東軍に属し活躍。本領安堵
され、寛永5年(1628)、70歳で没した。
長泰の遺領は嫡男である平野長勝が継ぎ、長勝は当初十市郡薬王寺村の藤井氏邸を仮
陣屋としていたが、寛永12年(1635)、新たに田原本陣屋の築造に着手する。そ
の際、田原本の支配権を巡って教行寺と軋轢を生じ、教行寺は箸尾に退去することとなっている。
教行寺の形成した寺内町を踏襲する形で陣屋町が形成され、寺川水運と中街道沿いと
いう好立地にも支えられ、大和国中心部の物流拠点として大いに繁栄することとなっ
た。その繁栄ぶりは「大和の大坂」と称されるほどであったという。
慶安元年(1648)、長勝は陣屋を田原本に移している。
代々平野氏は交代寄合旗本であり、表向御礼衆として江戸参府の際には柳間詰という
身分であった。
最後の当主となった平野長裕は、幕末の混乱期に佐幕派と尊王派の間を巧みに立ち回
り、慶応4年(1868)7月14日、新政府の計らいもあって、5千石を加増されて
諸侯に列され、田原本藩が立藩した。
その後、明治天皇に拝謁し、京都の警備を勤めることとなり、明治2年(186
9)、知藩事となる。長裕は姫嶋無適を執政に任じて藩政改革を行うのだが、明治4年
(1871)7月14日、廃藩置県によって免官となり、陣屋は廃されている。
陣屋規模は、南北約350m、東西約120mで、周囲を濠と土塁で囲んでいた。現
状では、その痕跡を認めることは困難である。しかしながら、本誓寺や浄照寺といった
寺院を巡ることで、その治世を感じられる。
(参考資料)
新編 藩史総覧 秋田書店
現地案内板