【 尾高惇忠生家 】
所在地: 深谷市下手計236
入館料: 無 料
休館日: 年末年始(12/29~1/3)
江戸時代後期、NHK大河ドラマ『晴天を衝(つ)け』で登場する尾高惇忠の曾祖父
である尾高磯五郎によって築造されたものと伝わる。
尾高家は「油屋」の屋号で呼ばれ、搾油業・製藍業を務めていました。岡部藩・安部
氏の下で下手計村の里正を務め、代々苗字帯刀が許されていた。
この家で、尾高惇忠や渋沢栄一の妻となった千代、栄一の見立養子となった平九郎、
伝馬町牢屋敷に投獄された剣豪・長七郎、惇忠の娘で富岡製糸場伝習工女第一号となる
ゆうが育ちました。
若き日の尾高惇忠や渋沢栄一らが水戸藩の尊王攘夷思想に共鳴し、高崎城乗っ取り・
横浜外国商館焼き討ちの謀議をなしたのも2階と伝わります。
内庭にある煉瓦倉庫は「上敷免製」の刻印を残す煉瓦が周囲に残されており、日本煉
瓦製造株式会社製の煉瓦で建造されたものと思われます。
生家前には「長屋跡」の石基壇が残ります。長屋も江戸時代後期頃に築造されたとい
われ、藍玉製造や菜種油の搾取など作業場として使用されていました。一説では惇忠ら
が剣術道場として使用していたと伝わります。
昭和40年(1965)頃に、西の少し離れた場所に移築されていましたが、平成1
5年(2003)頃に取り壊されてしまいました。
尾高家の人物についても軽く触れておきます。
尾高惇忠。通称新五郎。渋沢栄一の従兄にあたり、栄一は少年時代から惇忠の元に通
い、論語・中庸など多くの学問を師事したことは広く知られています。明治時代になる
と、惇忠は富岡製糸場初代場長や第一国立銀行(現在のみずほ銀行)盛岡支店長や仙台
支店長などを歴任しています。惇忠と栄一の縁は生涯続いていたことがうかがい知れま
す。
渋沢(尾高)千代。栄一の妻であるが、明治15年(1882)に病没。
渋沢(尾高)平九郎。栄一の見立養子となる。明治元年(1868)5月23日、飯
能戦争で戦死している。渋沢喜作(成一郎)の結成した彰義隊➡振武隊に参加し、幕臣
の子として新政府軍と戦い、若い命を散らしている。
尾高長七郎。文久2年(1862)の坂下門外の変の謀議などに参加。その後誤って
人を殺害し、伝馬町牢屋敷に投獄された。明治元年(1868)に出獄したが、下手計
村でまもなく病没した。
尾高ゆう。父である惇忠が富岡製糸場初代場長に就任するに際し、14歳で伝習工女
となった。当時女性たちの間では、工場で生き血を取られる(外国人技術者が飲むワイ
ンの色が誤解を与えていた)という噂があり、惇忠は自らの娘であるゆうを工女とする
ことでその噂は立ち消え、ゆうの決断は近隣に知れ渡り、感銘した女性たちが伝習工女
に志願し始めました。ゆうもまた、日本の近代化を支えた一人です。
以前は「尾高惇忠生家」に駐車場は整備されていませんでしたが、大河ドラマの影響
もあり、4~5台は生家前に駐車可能です。
土間から生家内を見学できるようにはなりましたが、生家内への立ち入りは禁止。
この地域の文化財の今後の活用については要検討の余地を残している。入場料無料と
いう施設が多く、観光客には喜ばしいものであるが・・・保存費用を考えると如何なも
のであろうか💦周辺には観光客向けの幟もたなびくが、この地で消費を促すものは少な
く、大河ドラマの影響が薄れた際のことを考えた施策を今後検討して行かなければなら
ないだろう。
(参考資料)
現地配付パンフレット