【 北新波の砦跡 】 評価 ★★
別 名:
所 在 地: 高崎市北新波町字古城216
築城年代: 16世紀
築 城 者: 新波氏か
区 分: 平 城
現 状: 北新波砦史跡公園・満勝寺
早瀬川と関端川が合流する地点に占地し、東北角と西南角に角欠きが認められ、南面
西寄りに突出した特色ある構えが認められるが、基本的に方形館である。
南東にある満勝寺のある60m四方の一郭と隣接し、これを別郭とし、両川を外防線
として砦機能を強化している。
山崎一氏『群馬県古城塁址の研究』では、満勝寺郭を北新波砦の別郭として扱ってい
るが、別城のようにも捉えられる気がしてならない。しかし、周辺の長野氏関連の城館
跡でも同様の配置も見られることから、長野氏の築城法の特徴なのかもしれない。
築城年代は明らかではないが、永禄元年(1558)の箕輪軍役割当帳に新波新右衛
門の名が見られることから、16世紀の築城と考えられている。
前年より、甲斐の武田晴信が上州に侵攻を開始しており、長野氏を中心とした上州一
揆はこれに対抗するも、永禄4年(1561)には長野業政が没し、上野守護・上杉憲
政も越後の長尾景虎に上杉の名跡を譲り、越後に退去するなど、徐々に事態が悪化して
いる。
『箕輪軍記』には、永禄6年(1563)或いは永禄9年(1566)二月、城主・
新波新右衛門は、那波無理之助宗安が高浜砦を奪取して白岩に突進、箕輪・鷹留間の遮
断に出た時、青柳金王忠家とともに出撃し、これを撃退したとある。
新波新右衛門は、永禄9年の箕輪落城に際し、長野業盛に殉じた人物でもある。
天正4年(1576)、武田勝頼は家臣である大井満安に北新波39貫文の所領を安
堵しており、長野氏没落後も北新波砦は機能していたと思われる節もある。
昭和56年度から、長野北部土地改良事業に関連し、昭和60年から61年(198
5~86)、高崎市教育委員会によって発掘調査が実施され、郭内を二分する堀が検出
された。
内堀は上幅3m、深さ1mで、外堀の幅5~7mに比べて規模は小さいものであっ
た。
全面的な発掘調査ではなかったが、掘立建物跡や井戸跡も検出したほか、内耳鍋・
鉢・すり鉢・石臼・土師質土器皿(かわらけ)・美濃や瀬戸、常滑焼の陶器・天目茶碗
や銭も出土している。
15世紀後半から16世紀中頃の西上州における中世砦跡として良好な遺構が保存されており、地域史上極めて重要な遺跡であるとして、群馬県史跡に指定されました。
その後、高崎市教育委員会は、史跡地及び周辺の公有地化に着手し、地域づくり事業
として史跡公園として整備されています。
(参考資料)
新編高崎市史 資料編3 中世Ⅰ
箕輪軍記
現地配付パンフレット
現地案内板