日本史跡研究会 日々の徒然~埋もれた歴史を訪ねて~

日本各地の埋もれた史跡などをご紹介致します。また、日本史跡研究会の活動についてもご紹介しております。

高梨氏館跡(長野県中野市)

 

  【 高梨氏館跡 】

 

           別  名:    中野小館・日野城

   所  在  地: 中野市中野小舘1069-4

   築城年代: 

   築  城  者:                中野氏

   区  分:              平 城

   現  状:           高梨館跡公園

 

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           ( 大手虎口に架けられた復元木橋と土塁・空堀

 

 平安時代末、この地は中野氏が栄えていたが、鎌倉時代後半頃より、市河氏がその所

領の多くを受け継ぎ、その後は夜交氏が所領していた。

 

 館はこの地域に勢力を有していた中野氏の居館として構えられたのが最初であると考

えられるが、築城時期は定かではない。

 

 『尊卑分脈』によれば、高梨氏は高井郡井上の清和源氏頼季流の井上氏一族である井

上盛光が高梨に居住し、高梨氏を名乗ったとされる。その後、本郷高梨氏と山田高梨氏

に分流し、山田高梨氏からは木曽義仲四天王の一人・高梨忠道を輩出している。一説で

は古族阿部氏の末裔にあたるとの説もある。

 

 南北朝時代、高梨経頼は北朝方として活躍。高梨氏は、応永7年(1400)の大塔

合戦に加わったほか、寛正4年(1463)、上杉右馬頭との高橋の戦いで勝利し大熊

高家・新野朝安らを滅ぼしている。更に永正7年(1510)、長森原の戦いでは関東

管領上杉顕定を討ち取り、越後守護代・長尾氏との関係を深めている。

 

 永正10年(1513)、高梨政盛が没すると、跡を継いだ高梨澄頼に対し、中野氏

残党や夜交氏・小島氏が反乱を起こすも、家臣・草間大炊助が鎮圧。この時期に本拠を

中野に移したようである。

 

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          ( 礎石建物跡は平面表示されている )

 

 甲斐の武田晴信が北信濃まで侵攻の手を伸ばした弘治年間(1555~1558)に

は、高梨政頼は一時飯山城に退去し、上倉・奈良沢・泉氏ら地元土豪衆を統括するが、

永禄4年(1561)には春日山城に移っている。

 

 武田氏滅亡後の天正10年(1582)8月、北信四郡を上杉景勝が領有すると、高

梨弥五郎頼親は安源寺周辺2,000貫を安堵されるのだが、館には一族の小島氏がおり

入城が叶うことはなかった。天正18年(1590)、小島氏が高梨氏に館を譲り渡し

たことでようやく故地に帰還することとなる。

 

 慶長3年(1598)、上杉景勝会津移封により、高梨氏もこれに従い、館は廃さ

れた。

 

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                  ( 庭園跡 )

 

 館跡は単郭方形館であり、東西約120m、南北約100m。土塁・堀が全周し、内

部は東辺78m、北辺86m、西辺60m、南辺86m。虎口は4ヶ所あるが、公園入

口の南虎口は後年のものであり、大手は西辺南側のものである。

 

 堀は8m前後の空堀で、東堀は薬研堀で内側に土留めの石積が見られる。南面土塁に

築地塀も残されている。北西隅と南西隅は櫓台と推測され、往時は隅櫓があったと考

えられている。

 

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                 ( 井戸跡 )

 

 昭和61年(1986)から平成4年(1992)にかけて、公園整備事業に伴う発

掘調査の結果、建物は2~3回建て替えられていることが明らかとなっている。

 

 

 高梨氏館跡は、中世城館遺跡の保存と活用を考察する上で好例の一つである。庭園跡

の復元という一点を取り上げても、豊後・大友館跡などとも比較検討可能であり、学術

論文に取り上げられよう。

 

 周辺遺跡等との面的活用が今後検討されるべき城館遺跡であろう。

 

 (参考資料)

   信濃の山城と館  8  水内・高井・補遺編    宮坂武男  戎光祥出版

   現地案内板