【 祟道天皇社 】
所在地: 奈良市西紀寺町40
大同元年(806)、平城天皇の勅命によって桓武天皇の皇太弟である早良親王を鎮
め祀るために創建された。
現在の本殿は、天正14年(1586)に春日大社若宮神社本殿として建立されたも
のを、元和9年(1623)に移築したもので、現存する春日移しでは最古の建物であ
る。本殿は一間春日造檜皮葺である。
さて、早良親王について説明しなければならないだろう。
光仁天皇の皇子である早良親王は、幼少の頃より仏門に入り高僧となっていたのだ
が、天応元年(781)、兄である桓武天皇即位の際に還俗し、立太子され皇太弟とな
った。
延暦3年(784)、桓武天皇は長岡京遷都を望み、信任厚い藤原種継を造長岡宮使
に任命するが、遷都後まもない延暦4年(785)、種継は暗殺されてしまう。大伴・
佐伯両氏を始めとする遷都反対勢力の仕業と考えた桓武天皇は、厳しい詮議を進めるこ
ととなり、遂には早良親王にまで類が及ぶこととなった。同年9月28日、早良親王は
廃位され乙訓寺に幽閉されてしまう。
親王は無実を訴え続けるも、桓武天皇は許さず、親王を淡路島へ配流することを決断
します。しかし、淡路島に向かう途中、親王は京都山崎の高瀬橋の畔で息途絶え、遺骸
はそのまま淡路仁井の地で埋葬された。
早良親王の死後、都では疫病が流行し、皇太子となった安殿親王が発病。桓武天皇妃
や早良親王の生母・高野新笠は病死する。さらに洪水など災害が相次ぎ発生したことか
ら、早良親王の祟りとされ、幾度も鎮魂の儀式が執り行われました。
延暦17年(798)、桓武天皇は早良親王の亡骸を都近くに丁重に迎え祀るよう使
者を淡路に派遣し、親王の亡骸は大和国嶋嶋陵に迎え、延暦19年(800)、葛井王
を遣わして追尊の儀を執り行い、祟道天皇と追称しました。
『日本後記』大同元年辛巳条には「祟道天皇(早良親王)のため諸国の国分寺の僧を
して春秋二仲月別七日に、『金剛般若経』を読ませしむ」との記述があり、平城天皇が
祟道天皇の御霊を鎮め慰めるための仏教行事を命じたもので、これが彼岸会の始まりと
されます。
京終の地は未踏査であったが、早良親王を祀る社がこの地にあったとは知らなんだ💦
藤原種継暗殺事件に連座して非業の死を遂げた親王。歴史の舞台に立ち、まだまだ知り
たいことは多いと思い知らされます。
(参考資料)
祟道天皇社由緒略記
現地案内板