【 義人茂左衛門刑場址 】
群馬の誇るご当地カルタである『上毛カルタ』。「て」札に読まれているのが、天下
の義人茂左衛門。本名は杉木茂左衛門であるが、寛文2年(1662)の検地帳にその
名が見えるのと、天和元年(1681)の訴状の写しがあるのみで、その実像は不明な
人物である。
茂左衛門の生きた時代、沼田藩主である真田信利は松代藩への対抗心から領民に対し
て悪政を行っていた。信利は年貢枡が他地域よりもはるかに大きいものに変更したり、
年貢を納められない農民らを水牢に入れたり、領内に関所を多く設けるなどしている。
沼田藩の石高は3万石余であったのに、14万4千石と幕府に届け出ていることから農
民の負担が計り知れないものと想像できよう。
その悪政に追い打ちをかけるように、延宝8年(1680)、大飢饉が発生。その
上、信利は台風によって被災した両国橋の修復のため、用材調達を幕府から請け負い、
木材伐採や運搬に領民を駆り出したことから、さらに農民は困窮します。
この状況を憂いた茂左衛門は、天和元年(1681)、真田信利の圧政を幕府に直訴
すべく江戸に上ります。まず時の老中・酒井忠清に駕籠訴を行うも取り合ってもらえ
ず、一計を用います。
上野寛永寺門主である輪王宮の菊の御紋が入った偽の文箱に訴状を入れ、中山道板橋
宿の茶屋に置き捨て、忘れ物だと勘違いした茶屋の主人が寛永寺に届け出て、輪王宮が
中の訴状を将軍・徳川綱吉に伝えるように仕組みました。
目論見は成功し、幕府による取り調べの結果、真田伊賀守信利の悪政が明らかとな
り、沼田藩真田家は改易される。これを見届けた茂左衛門は月夜野に戻るが、直訴は当
時の大罪。茂左衛門とその家族は捕らえられ、天和2年(1682)、利根川竹の下河
原で磔となり処刑されました。
輪王宮から茂左衛門への助命嘆願によって幕府は赦免の使者を沼田に送ったものの到
着が間に合わずの処刑であったと言われます。
茂左衛門の直訴は代表越訴型一揆の典型であるが、杉木茂左衛門は村の名主という立
場ではなく、中流農民であったという。沼田藩領では茂左衛門の他にも直訴に及んだ人
物がいたのであるが・・・のちに戯曲化された茂左衛門の偉業のみが注目されてしまっ
ている。
(参考資料)
現地案内板