日本史跡研究会 日々の徒然~埋もれた歴史を訪ねて~

日本各地の埋もれた史跡などをご紹介致します。また、日本史跡研究会の活動についてもご紹介しております。

庭谷城跡(群馬県甘楽郡甘楽町)

 

  【 庭谷城跡 】       評価 ★★

 

     別  名:     庭 屋 城

     所  在  地: 甘楽郡甘楽町庭谷字城686

     築城年代: 

     築  城  者:             庭 谷 氏

     区     分:        崖 端 城

     現  状:          赤城神社・宅地・耕地

 

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 築城年代は明らかではないが、国峰城主・小幡氏の家臣である庭谷氏によって築かれ

た。国峰城の支城として機能していた。

 

 永禄6年(1563)、甲斐国主・武田晴信は西上州に侵攻。亡命していた小幡重貞

を国峰城に復し、上原図書(隋応軒)を庭谷城主・庭谷左衛門尉に添えている。その上

で小幡重貞を上野衆(西毛七郡)筆頭とした。

 

 天正10年(1582)、武田滅亡後、小幡重貞は滝川一益に従うも、直後に織田信

長が本能寺の変で横死。小幡信貞(織田信忠の一字を与えられ改名していた)は後北条

氏に仕えることとなり、重臣の庭谷左衛門尉もそれに従っている。

 

 天正18年(1590)、小田原の役の際には、小田原に拠った小幡信貞の嫡男・信

秀を補佐し国峰城を守備したが、豊臣勢の前に庭谷城共々落城した。その後、廃城とな

ったと思われる。

 

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 東流する鏑川が大きく南に屈曲して断崖を形成し、奈免沢と合流する部分に位置し、

鏑川右岸の断崖上に位置する。

 

 規模は東西80m、南北140m。本丸は40m四方で、虎口は本丸西側のやや南寄

りにあり、追手虎口は本丸の約50~60m西側にあった。追手は僅かに喰違いが認め

られる。

 

 堀は南側と西側にあったのだが、近年埋められてしまった。遺構としては郭、土塁が

残されている。

 

 

 「庭谷城跡」を訪れる際には、庭谷公民館を利用した方が良い。城跡まで車で行ける

ことは行けるが💦運転に自信があったとしてもお薦めはしない(+_+)

 

 公民館近くには、庭谷氏歴代の墓とされる五輪塔群もあり、併せて見学する方が良い

ですよ(^^♪

 

 (参考資料)

    群馬県古城塁址の研究 下巻    山崎 一  群馬県文化事業振興会

    現地案内板