【 庭谷城跡 】 評価 ★★
別 名: 庭 屋 城
築城年代:
築 城 者: 庭 谷 氏
区 分: 崖 端 城
現 状: 赤城神社・宅地・耕地
築城年代は明らかではないが、国峰城主・小幡氏の家臣である庭谷氏によって築かれ
た。国峰城の支城として機能していた。
永禄6年(1563)、甲斐国主・武田晴信は西上州に侵攻。亡命していた小幡重貞
を国峰城に復し、上原図書(隋応軒)を庭谷城主・庭谷左衛門尉に添えている。その上
で小幡重貞を上野衆(西毛七郡)筆頭とした。
天正10年(1582)、武田滅亡後、小幡重貞は滝川一益に従うも、直後に織田信
長が本能寺の変で横死。小幡信貞(織田信忠の一字を与えられ改名していた)は後北条
氏に仕えることとなり、重臣の庭谷左衛門尉もそれに従っている。
天正18年(1590)、小田原の役の際には、小田原に拠った小幡信貞の嫡男・信
秀を補佐し国峰城を守備したが、豊臣勢の前に庭谷城共々落城した。その後、廃城とな
ったと思われる。
東流する鏑川が大きく南に屈曲して断崖を形成し、奈免沢と合流する部分に位置し、
鏑川右岸の断崖上に位置する。
規模は東西80m、南北140m。本丸は40m四方で、虎口は本丸西側のやや南寄
りにあり、追手虎口は本丸の約50~60m西側にあった。追手は僅かに喰違いが認め
られる。
堀は南側と西側にあったのだが、近年埋められてしまった。遺構としては郭、土塁が
残されている。
「庭谷城跡」を訪れる際には、庭谷公民館を利用した方が良い。城跡まで車で行ける
ことは行けるが💦運転に自信があったとしてもお薦めはしない(+_+)
公民館近くには、庭谷氏歴代の墓とされる五輪塔群もあり、併せて見学する方が良い
ですよ(^^♪
(参考資料)
現地案内板