平成元年(1989)から平成2年(1990)、(公財)群馬県埋蔵文化財調査事
業団によって発掘調査が実施され、東日本における弥生時代の高地性集落は当時類例が
なく、その重要性から国指定史跡となった「中高瀬観音山遺跡」。
富岡市教育委員会では、遺跡の重要性を周知するため、史跡整備事業を進めており、
令和4年度は、平成の調査時に確認された焼失住居である75号遺構の再調査、1号堀
の西側などで確認調査を実施しています。
午後2時から参加しましたが・・・約50名ほどが参加しておりました。
( 75号遺構 )
弥生時代後期後半の大型住居で、平成の調査時に大量の炭化材が出土しており、焼失
住居とされている遺構です。遺跡からは鉄鏃などの遺物も出土していることから、倭国
大乱で焼失したと推察されている遺構です。
( 1号堀 )
南北に延びる尾根を切るように、東西方向に設けられている。今回の調査では、土層
の観察から、堀の北側に土塁が設けられていたことがわかったという。
( 方形周溝墓 )
南側に開口する「コ」の字状に溝を設けており、他遺跡の調査結果から方形周溝墓と
推定されています。中央墳丘部は失われており、全体的に後世の削平を受けている(遺
跡発見前は一面の蒟蒻畑であった)。集落の墓域にあたる地域であるが・・・限られた
地点での調査のためか?1基のみしか確認されていない。
さて、今回初の高地性集落の遺構を確認したのであるが、数々の疑義を持った。
遺構配置図を見ると、1号堀は集落を囲むように巡っていないようである。方形周溝墓
1基のみで墓域と考えるのはどうなのか。全面的に発掘調査が実施されたわけではない
ので仕方ないが、西日本の高地性集落との比較が必要だと感じた。
また高崎市の環濠集落「日高遺跡」は争いの痕跡はなかったという。「中高瀬観音山
遺跡」は争いがあったという。これは何を示すのか?
う~ん。考古学は本当に奥深い学問である(+_+)
なお、説明会では思わぬ収穫が・・・。それは奈良大学卒の方が富岡市教育委員会文
化財保護課に居たってこと!!
こうした人脈形成が学友会関東支部北関東ブロック設立後に役立つことは言うまでも
ありません(^^♪ 本日は非常に成果のあった1日となりました(^^♪