【 蒲盧碑 】
所在地: 大田原市親園3034-1
文化9年(1812)10月、那須野に一隊の兵士が刀を荷いうち立て行進する蜃気
楼(この地では「ほろ」と呼んでいた)が現れた。その時、たまたまここを通りかかっ
た甲州の高津義克という行脚僧が蜃気楼を目撃し、その光景を書き残して去った。その
後、その文を石に刻んで建立したのが「蒲盧碑」である。
当時の親園は天領であり、八木沢村と呼ばれ、吹上陣屋の出張陣屋が置かれ、代官・
山口鉄五郎が支配していた。鉄五郎は水路を開削し新田開発するなど農村復興に努めた
人物で領民から深く親しまれていた。
明治から昭和にかけての郷土史家である人見傳藏は著書『那須野蜃気楼 蒲盧碑考』の
中で、『中庸』の中の「政治は蒲や盧のようなもの」という一文から、碑文は山口鉄五
郎の善政を蜃気楼(蒲盧)に結び付けたものと考察している。
碑文の裏面には代官手代・飯岡直蔵(重武)の詠んだ
はてしなく浮世の人にみするかな
という句が刻まれている。
「蒲盧碑」のように為政者の善政を称える碑は各地に存在しているが・・・、顧みて
戦後の為政者が後世の人に善政を称えられることはあるのだろうか?そう感じるのは某
だけだろうか。
(参考資料)
現地案内板