【 藤井竹外邸跡 】
所在地: 高槻市野見町2-33
文化4年(1807)、高槻藩士・藤井沢右衛門(貞綱)の長男として生まれた。本
名を啓、字を士開、雨香外史、小広寒宮主人などと号していますが、竹外、竹外酔士の
号がよく知られています。
藩校・箐莪堂で学び、鉄砲術など武芸に秀でる一方、青年期より頼山陽から詩歌と文
章を学び生涯詩作に没頭した。
七言絶句を得意としたことから「絶句の竹外」と称され、嘉永7年(1854)刊行
の『竹外二十八字詩』には215首の詩が収められている。時事について取り上げるこ
とは稀であり、風物、人情に関するものを多く詠んでいます。
方々に吟行し、東山、嵐山、比叡山、吉野のほか、美濃や江戸の上野や佃島なども訪
れて詩作しています。中でも、「花鳥下澱江」「花井」「芳野」などは竹外の代表作と
して知られています。
幕末の動乱期、55歳で京都三本木で隠居。先師頼山陽旧宅に程近く、後に師事した
梁川星巌旧宅と鴨川を隔て相対し、悠々自適な生活を送り、慶応2年(1866)、6
0歳で没した。
門下には高槻藩士・高階春帆、市村水香らがおり、明治時代に「竹外吟社」を結成
し、竹外の作風の継承と発展に努めている。
さて、藤井竹外という人物。この史跡を発見するまで知らなかったんですが・・・、
本ブログ更新のためにいろいろ調べていましたら、過去美濃・大垣で稲葉一鉄関連の城
館踏査の際に耳にした「梁川星巌」って人物と繋がりがありました。
日本史跡研究会の現地踏査を行う際は、歴史の繋がりに着目して踏査地を決めること
も多いんです。がっ、今回の高槻踏査においては全く頭になかった概念。それが「藤井
外竹」と「梁川星巌」という人物で繋がっていました!!
これも一つの踏査の醍醐味。細々とした史跡も見落とすことなく散策すれば、史跡
(点)と史跡(点)が細い線となるんですねぇ。そんな発見があった史跡でした(^^♪
(参考資料)
現地案内板