【 石倉城跡 】 評価 ★
別 名: 石倉砦
所 在 地: 前橋市石倉町上石倉
築城年代: 永禄8年(1565)
築 城 者: 武田信玄
区 分: 崖端城
現 状: 石倉城址公園・宅地
利根川崖端に位置し、半同心円状に郭を構えていたが、現在では宅地造成のため発掘
調査も実施されぬまま消滅してしまった。
永享の頃、総社長尾忠房によって築かれた石倉城は古城であり、本城ではないと推察
されるが・・・調査が実施されておらず、その所在地は不明である。
永禄8年(1565)2月、上州に侵攻した武田信玄は倉賀野城を攻略後、直ちに石
倉に進軍。8月、上杉輝虎も越山し厩橋に布陣するも利根川が増水したため、西上州奪
還は叶うことはなかったと『永禄日記』に記されている。その直後に信玄は石倉城を築
き、厩橋城の押さえとした。
『上州故城塁記』によれば、「信玄、西上州を攻取りし時、高崎の繋として厩橋を押
へん為に之を築き、帯金某を城主とし長根、大戸、三ノ倉に命じて相守らしむ。永禄八
年六月、厩橋の城代北城丹後襲うて取り、外甥阿老神六郎に守らしむ。同七月、信玄再
び奪返して、馬場美濃守信房に命じて縄を改め修営して、曾根七郎兵衛を城代とす。小
田原陣の時は寺尾左馬助(北条家人)之を守れり。松平修理大夫康国、同新六郎康寛攻
めしに、寺尾詐りて降を乞ひ、城を明渡すとて康国を欺きて刺殺す。康寛幷に依田筑後
守昌種等攻入りて左馬助を殺し城を屠る」と記されている。
『上野志』には「・・・甲州より和田兵衛を入置く」、『上野伝説』には「石倉治部
は厩橋城代北条丹後守に降り石倉を与えられた」とも記されている。
天正18年(1590)、廃城となり、その後の利根川の浸蝕によって本丸の大半な
どが失われている。
小さな公園の隅に城址碑が建立されているのみであるが、武田氏・上杉氏の争奪のば
となった城であり、想像を掻き立ててもらいたい。対岸には群馬県庁(厩橋城)が望
め、当時の緊迫した状況も理解できる城館である。
城巡りをするものにとっては、遺構がなくとも城址碑があれば上等、案内板だけでも
御の字(^^♪ 前橋市の城館巡りでは必ず押さえたい城である。
(参考資料)
日本城郭体系 4 茨城・栃木・群馬 新人物往来社