日本史跡研究会 日々の徒然~埋もれた歴史を訪ねて~

日本各地の埋もれた史跡などをご紹介致します。また、日本史跡研究会の活動についてもご紹介しております。

二木土佐屋敷跡(長野県安曇野市)

 

  【 二木土佐屋敷跡 】         評価 ★

 

   別  名:

   所  在  地:  安曇野市三郷明盛字二木

   築城年代:  

   築  城  者:      二木土佐守

   区  分:       屋 敷

   現  状:       宅 地

 

 

 『三郷村誌』によれば、「二木土佐は二木村本郷地蔵堂付近に居住したと思われる。

地蔵堂の東隣、温堰を隔てて、東西に約三〇間(54m)土手が残っていたと言われ、

これを北にして南四、九四五の一番地付近が堀の内であったと推定される」としてい

る。この地から明治7年(1874)、開元通宝・永楽通宝など2350枚ほどが出土

している。

 

 築城年代は定かではないが、二木郷の開発領主(土豪)で信濃守護・小笠原氏譜代の

二木豊後守重高の弟で、天正11年(1583)、西牧代官になった二木豊後守寿斎の

叔父にあたる二木土佐守によって構えられた屋敷である。

 

 二木土佐守に関しての詳しい事績も定かではないが、天文年間(1532~155

5)豊後守重高とともに信濃守護・小笠原長時に与していたと思われる。長時没落後、

重高・寿斎父子は小日方上総守に依頼し甲州武田信玄に謁見し、本領安堵され以後武

田被官となり、山県三郎兵衛の与力となっているので、父子に従ったと思われる。

 

 二木土佐には4人の子息がおり、長男縫之助、二男草間源五郎、三男藤左衛門、四男

善左衛門といい、三男はこの地で土着し百姓となり、四男の子彦兵衛は小笠原氏に臣従

豊前国小倉に移ったという。

 

 

 現在も「二木」姓のお宅であることから、御子孫が御在住なのだろう。それにしても

立派なお宅である。屋敷南西隅に城址碑が建っているのが有難い。

 

 (参考資料)

   三郷村誌Ⅱ 第2巻 歴史編上

   信濃の山城と館 7 安曇・木曽編   宮坂武男  戎光祥出版