日本史跡研究会 日々の徒然~埋もれた歴史を訪ねて~

日本各地の埋もれた史跡などをご紹介致します。また、日本史跡研究会の活動についてもご紹介しております。

守護所 富樫館跡(石川県野々市市)

 

   【 守護所 富樫館跡 】                   評価 ★

 

   別  名:

   所  在  地: 野々市市住吉町235-2

   築城年代:     建武2年(1335)

   築  城  者:        富樫高家

   区  分:          居 館

   現  状:          宅 地

 

 

 建武2年(1335)、足利尊氏によって加賀守護に任じられた富樫高家によって築

かれたとされる。

 

 富樫氏は藤原利仁の流れを汲む加賀斎藤氏の一族であり、同族の林氏嫡流が承久3年

(1221)の承久の乱後鳥羽上皇方に与したことで衰退した後に、幕府方として活

躍した富樫氏は加賀武士団の筆頭となり、加賀守護・北条氏の代官として勢力を拡大し

た。この頃の居館も「富樫館」であるが・・・、守護所と同一の地であったのか、別の

場所だったのかは明らかではない。

 

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 高家以後、加賀守護として守護所で政務を執ったようである。

 

 至徳4年(1387)、富樫昌家が没すると、斯波義種が加賀守護に任命され、応永

21年(1414)、義種が失脚し、富樫満春と満成が加賀を半国づつの守護に任命さ

れるまでの27年、「守護所 富樫館」が機能していたかは定かではない。

 

 さらに嘉吉元年(1441)、富樫教家は将軍足利義教の怒りにふれ、弟の泰高が守

護となるも、義教の死によって富樫一族の内紛が勃発する。この内紛は赤松氏も加わっ

たこともあり、応仁2年(1468)、富樫政親が加賀一国の守護となるまで続く。

 

 さらにさらに戦国期の混乱は加賀一国を嵐に巻き込み、越前の朝倉孝景本願寺蓮如

吉崎御坊の関与もあり、富樫氏の勢力は次第に衰える。

 

 長享2年(1488)、政親は一向一揆の攻撃を受けて自刃(長享の一揆)。最後は

元亀元年(1570)、富樫晴貞が一向一揆に討たれ、富樫氏は滅亡💦

 

 これ以降に館は廃絶したと考えられています。

 

  

 館の詳細な場所は長く不明であったのですが・・・、平成6年(1994)の発掘調

査で館の周囲を囲む掘の一部が検出。

 

 上幅6~7m、下幅約1m、深さ約2.5mのV字形で、その隣に土塁痕が確認されて

いる。遺物として、14世紀から16世紀前半の土師器、珠洲焼、瀬戸焼、中国製青磁

器などの陶磁器類、直径約5㎝ほどの銅鏡も出土している。この威信財の出土が「守護

所 富樫館」を裏付けている。

 

 安政5年(1858)の『富樫館跡絵図』には、館の周囲を巡る土塁が描かれ、その

規模は一辺約100~120m四方であったと推察されている。

 

 

 野々市市は、過去に発掘調査された遺跡に関して積極的に案内板を設置しており、非

常に好感が持てる街であった。指定未指定に関わらず文化財埋蔵文化財含む)の活用

が叫ばれている中、野々市市の取り組みは他の市町村も参考にすべきだろう。

 

 (参考資料)

    加賀の守護 富樫氏の歴史と遺跡  石川中央都市圏歴史遺産活用連絡会

    現地案内板