日本史跡研究会 日々の徒然~埋もれた歴史を訪ねて~

日本各地の埋もれた史跡などをご紹介致します。また、日本史跡研究会の活動についてもご紹介しております。

山子田城跡(群馬県北群馬郡榛東村)

 

  【 山子田城跡 】                  評価 ★

 

   別  名:         桃井城、桃井西城

   所  在  地: 北群馬郡榛東村山子田字御堀

   築城年代:          鎌倉初期?

   築  城  者:   土屋大学権介義清?

   区  分:               平 城

   現  状:                  耕 地

 

 

 鎌倉時代初期、相模国の豪族であった土屋大学権介義清が、この地の地頭として赴任

した際に居館として築いたのが始まりとされる。

 

 『吾妻鏡』の和田合戦の描写に、土屋一族の郎党に上州の武士がいたことが記されて

おり、この地の武士だったのではないかと推察される。

 

 鎌倉末期から南北朝時代には桃井郷領主で足利系源氏の桃井播磨守直常の本拠となっ

たようである。直常は当初足利高氏(尊氏)に従って京都・六波羅探題を攻め落とした

のですが・・・、後に反旗を翻し(直常に言わせたら尊氏がそうだったのでしょうけれ

ども💦)南朝方の武将として各地を転戦。応安4年(1371)以降、その消息は知ら

れていない。直常は上野国桃井郷に隠棲したとも、越中国松倉で病死したとも、また同

国岩瀬城で自害したともいう。

 

 いずれにしても、尊氏に反旗を翻したのち、桃井郷は桃井一族で北朝方(尊氏方)の

桃井義盛の領地となったとされる。

 

 戦国期には、桃井地衆が城を領していたとされ、東西約210m、南北約190mの

規模の城郭を形成していたと推定されている。

 

 上杉謙信麾下の桃井義孝(讃岐守直光、清七郎と同一人物とされる)は桃井氏末裔で

あるが、桃井氏は各地に子孫を連綿と伝える一族である。

 

 天正18年(1590)、北条氏滅亡まで「山子田城」は機能されていたようである

が、詳細な歴史は不詳である。

 

 

 遺構として櫓台跡・土塁と想定されるものはあるが、「御堀の五輪塔」はしっかり確

認してもらいたい史跡である。

 

nihonshiseki.hatenablog.com

 

 また城館跡ではないが、榛東村には茅野遺跡出土の見事な耳環が展示されている「榛

東村耳飾り館」もあるので、見学して頂きたいと思います(^^♪

 

 (参考資料)

   群馬県古城塁址の研究 下   山崎一  群馬県文化事業振興会

   現地案内板