日本史跡研究会 日々の徒然~埋もれた歴史を訪ねて~

日本各地の埋もれた史跡などをご紹介致します。また、日本史跡研究会の活動についてもご紹介しております。

手取川古戦場(石川県白山市)

 

   【 手取川古戦場 】

 

             所在地: 白山市湊町ヨ146  呉竹文庫 駐車場(古戦場碑)

 

 

 天正5年(1577)9月15日、越後の龍・上杉謙信能登國七尾城を攻略。間も

なく、七尾城の後詰である総大将・柴田勝家前田利家滝川一益ら織田勢5万が加賀

手取川を越えたとの報を受けた。

 

 9月18日、謙信は七尾城を出立し加賀國へと南下。

 

 柴田勝家らは手取川周辺に陣を構え、謙信を迎え撃つ備えを固めていたのだが・・・

七尾落城の報が伝わると浮足立ち💦士気は低下💦

 

 毘沙門天の化身とも称される謙信を迎え撃つことの不利を悟った勝家は、9月23

日、夜陰に紛れて越前へ退却を開始した。

 

 

 ところが、運悪く手取川が増水しており背水の陣であった織田方は、上杉軍の猛攻の

前に千余人が討ち取られ、増水した川の流れに押し流されるもの数知れずという大敗を

したのであった。

 

 謙信はこの時、信長と雌雄を決する覚悟をもって臨んでいたが、織田勢のあまりの弱

さに、この分なら天下を手にするのは簡単だ!と言ったという。

 

 手取川の戦いの様子を後世の人は

 

  上杉に逢うては織田も名取川手取川) はねる謙信逃ぐるとぶ長(信長)

 

                          と狂歌に詠んでいる。

 

 

 穏やかな流れを見せている手取川。この地で上杉勢と織田勢が激突。この戦いの後に

謙信は不穏な関東情勢を前に織田勢の追い討ちを諦め、春日山に帰陣。そして急逝。

 

 もしも謙信が後顧の憂いなく織田勢を追撃していたならば・・・その後の歴史はどう

なったであろう。そんな想像をしたくなる「手取川古戦場」である。

 

 (参考資料)

     上杉謙信      花ヶ前盛明      新人物往来社

   現地案内板