日本史跡研究会 日々の徒然~埋もれた歴史を訪ねて~

日本各地の埋もれた史跡などをご紹介致します。また、日本史跡研究会の活動についてもご紹介しております。

伊達宗高公御廟及び殉死者の墓(宮城県柴田郡村田町)

 

  【 伊達宗高公御廟及び殉死者の墓 】

 

           所在地: 柴田郡村田町村田字大槻下92 龍島院境内

 

 

 伊達宗高は仙台藩主・伊達政宗の七男として仙台に生まれ、慶長18年(161

3)、7歳にして村田城主となり、柴田・刈田郡3万石を領することとなる。

 

 元和9年(1623)、宗高17歳の時、蔵王連峰の刈田岳が噴火🌋翌年になっても

火山活動は沈静化せず、領内に大きな被害をもたらした💦

 

 父である政宗は宗高に対し、「中国人の王翼とともに刈田岳山頂に登り、天に請願せ

よ」と命じ、宗高は父の命に従い山頂に登り命願して噴火を鎮めた。この行いは領民の

心を打ち、領民は宗高を敬慕するようになったという。

 

 寛永3年(1626)、従五位下・右衛門大尉の官位に受任されることとなり、政宗

と共に上洛しますが・・・、当時流行していた天然痘に侵され💦20歳という若さで亡

くなってしまいました(>_<)

 

 その後、主君を追って・・・家老・福地右近(33)、奥小姓・日下十蔵(22)、

近習・赤坂景光(22)、斎丹後(63)、小姓・油井五郎助(17)、小姓・佐藤権

四郎(18)、小姓・菅野権七(23)、小姓・有見勘平(20)、近習・高橋清三郎

(19)、乳母・御阿知也(55)の10名が殉死しました。

 

 

 龍島院境内の高台に「伊達宗高公御廟及び殉死者の墓」はありました。途中、3.1

東日本大震災の際に倒れたのであろう墓石も多々見受けられ、未だ復興ならず!との

思いを抱かせる史跡踏査となりました。

 

 20歳という若さで没した宗高公。広く知られた君主ではないかもしれませんね。も

天然痘にかからずにいたら、村田領内をどのように導いたのでしょうね。

 

 (参考資料)

   現地案内板