日本史跡研究会 日々の徒然~埋もれた歴史を訪ねて~

日本各地の埋もれた史跡などをご紹介致します。また、日本史跡研究会の活動についてもご紹介しております。

高崎山 清涼院 龍廣寺(群馬県高崎市)

 

  【 高崎山 清涼院 龍廣寺 】

 

   所在地: 高崎市若松町49

 

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 慶長3年(1598)、徳川四天王の一人で井伊の赤鬼と称された井伊直政徳川家康の命によって居城を箕輪から和田の地に移すこととなった際、箕輪城下の龍門寺住職である白庵秀関和尚を開山として開山した寺院です。

 

 直政は縄張り候補地に鷹を放ったところ、一本の松の木に留まったという。和田という地名を鷹ヶ崎とするか、松ヶ崎とするか思案し、白庵秀関和尚に問うと、「生物には生死栄枯あり。公が命を奉じて、この城を築かれることは盛事大名である。成功高大の義を採って高崎と称すべし」と答えたという。

 

 直政は大いに喜び、和田を高崎と改め、さらに寺院山号高崎山とするように命じたという。清涼院とは直政の戒名であり、正式名称に入れられた。

 

 山門は嘉永7年(1854)建立されたもので、境内には「村上鬼城の墓」「ロシア人兵士の墓」がある。

 

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 本堂は大正5年(1916)建立。

 

 高崎市内には井伊直政に関連した場所というものは少ない。箕輪城も井伊の城のイメージより長野氏の城と認識されている方が多いような感がある。

 そんな高崎にあって、井伊直政が高崎城主であったことを感じさせてくれるのが、「龍廣寺」である。

 

 井伊は彦根って思っているかもしれませんが・・・、高崎・安中も井伊ですよぉ(^^♪って思っていますが、NHK大河ドラマ『女城主・井伊直虎』の時にもま~ったく井伊由来の地というPRしていませんでしたぁ💦💦

 

 (参考資料)

   現地案内板

今月はバタバタするぞぉ💦💦・・・多分。

 

 今月の手帳を見ると、それなりに予定は書かれていた。

 

 大学関係のものが多いのだが・・・、

  ① 在宅特別科目習得試験  6/13 『史料学概論』  6/27 『生涯学習概論』

    『史料学概論』解答は作成済も、『生涯学習概論』は未作成💦目下制作中!

 

  ② 博物館実習(1)に関するもの

    a、引率見学に相当するレポート提出  6/22~6/29  

       ※ これは発送するだけで作成済

    b、6月講演に相当するレポート   上旬にその内容が届くでしょ💦 

       ※ これも提出期間は6/22~6/29。

         到着したら早々に作成しなきゃなりませんな💦

 

  ③ 『東洋史特殊講義』テキスト学習🖊

     テキスト 151/185ということで残すは30P余を残すのみ

     20日を目途にレポート課題も仕上げて提出したいところである。

 

  ④ 史跡踏査・博物館見学等

     自粛は続けつつ、出陣🏇しなければならぬ。卒業論文執筆のためにも。

     群馬県立歴史博物館等も開館し始めたし、気分転換も必要かな(^^♪

 

  ⑤  日本史跡研究会活動の再開?

     会報記事も完成していますから、早々に印刷して会員の皆さんに発送しなけ

     ればなりませんね💦トナーや紙など必要物資の補給にも行かなければ。

     油断は禁物ですが・・・研修の開催日も模索しなければねぇ💦

 

   ⑥ その他もろもろ💦

     3ヶ月に一度の群馬大学医学部付属病院🏥通院はじめ、仕事の事務処理もし

     っかりとこなさねばならない。これ基本!

 

 バタバタするだろうけれども、1日1日やれるだけのことをやる。このスタイルは変えられませんから気張ります(^^♪ 

来月からは徐々に・・・。

 

 今年も早5ヶ月過ぎ去ろうとしておりますね💦

 

 今年は新年早々、新型コロナウイルスの影響で活動自粛が求められたこともあって、なかなか何処にもお出かけ出来ない状況が続いておりましたが・・・。

 

 明日から越県を徐々にしていくことも可能になる指針が出されましたので、お出かけも可能かな。

 そうは言っても、東京・神奈川・北九州でも第二波🌊のような感もあるので、地元から徐々に進軍開始と行きましょうかねぇ。

 

 どこに行くにしても、行きたい場所はあります。

 

 これまでは城館跡巡りがメインでしたから、地元にだって古墳やら遺跡やらまだまだ行ってない場所ありますからね。

 でも、城館跡メインであることには違いない。そして、卒業論文に必要な場所には少しづつでも訪問し踏査することになるでしょう。

 

 「行こう!行かなばならぬ!今日は出陣じゃい!」って気持ちを盛り上げて、家から出なくてはなりませんな。

 自粛自粛で、怠惰な感じを、以前のようにアクティブにならなきゃ(^^♪

平城宮 東院庭園(奈良県奈良市)

 

  【 平城宮 東院庭園 】

 

   所在地:           奈良市法華寺

   拝観料:               無 料

   休館日:    月曜日(祝日の際はその翌日) 年末年始(12/29~1/3)

 

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 昭和42年(1967)、発掘調査が行われ、平城宮東張出部の東南隅に大きな庭園池の遺構が確認された。

 この場所は『続日本紀』にみえる東院にあたることから、東院庭園と名付けられ、発見を契機に昭和51年(1976)・昭和53年(1978)・昭和55年(1980)にかけて発掘が継続され、園池の全体像が明らかとなった。

 

 平成5年(1993)、東院庭園復原整備が開始されるとともに、周辺の調査も平成12年(2000)まで継続。同年に復原整備事業も完成している。

 

 こうした発掘調査の結果、東西80m、南北100mの敷地の中央に複雑な形の汀線を持った洲浜敷の池を設け、周囲にいくつかの建物を配していたことが確認されました。

 

 東院庭園の園池は、神護景雲元年(767)、称徳天皇が瑠璃色の瓦を葺いた東院玉殿を建設したのを機に、前期・後期に分けることが可能です。東院玉殿では、宴会や儀式が催された迎賓館にあたる施設であったと考えられています。

 また、光仁天皇の建てた揚梅宮もこの地にあったと推測されています。最近では、聖武天皇の南苑(南樹苑)もこの場所を中心に営まれたとする説も提唱されています。

 

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 昭和53年(1978)、文化庁特別史跡平城宮跡保存整備基本構想』に基づき復原整備は行われています。

 

 復原整備に際しての基本方針は、

  ➀ 奈良時代後半の庭園の姿および建物を復原整備する

  ② 遺構は保護のために土で覆い、その上に池、建物、橋、塀などを原寸大で復原す

    るが、石組や景石の一部は、実物を露出展示する

  ③ 出土した植物遺体などの発掘成果や文献資料を元に、植栽樹種を選定し、古代庭

    園にふさわしい景観を復原する

であり、基本方針に従って復原整備されています。

 

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                                                     ( 園池 築山石組 )

 

 しかしながら、建物の復原にあたっては建物上部がどのような姿であったのかは不明なことから、中央建物は「法隆寺伝法堂」、北東建物は「法隆寺食堂」を参考に復原しています。

 すなわち、建物は推定復原であるのです。拝観の際はその点には十分気を付けて下さいね💦

 

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 推定復原であることが一番理解しやすいのが、隅楼です。この建物、何処かで見覚えないでしょうか?そう、宇治平等院鳳凰堂を模した建物になっているのです💦

 

 これには裏話がございまして・・・、復原にあたっては考古学者や建築学者など多彩な方々が「あ~でもない。こ~でもない。」を喧々諤々の議論が交わされたそうです。建築学者の立場から言っても、考古学者の立場から言っても隅楼上部の鳳凰はあり得ないのですが・・・、観光面を考慮して欲しいという声もあったようで💦

 

 結果。鳳凰が取り付けられました。議論に参加していた奈良大学文学部教授・上野誠教授曰く「今後、同様の遺跡から鳳凰が出てくる可能性も無くはない。後で鳳凰を取り付けようとしても予算が得られない。鳳凰を後でなかったとして取り外しも可能だぁ」

 皆さん、ぐうの音も出なかったでしょうね。上野教授の御人柄がわかります(^^♪

 

 

 平城宮跡朱雀門広場が出来たりと奈良市の観光拠点として整備されつつありますが、観光考古学の観点から題材にするにはうってつけの場所ですね。

 広大な敷地をレンタルサイクルで散策するのも一興ですし、何度かに分けて散策するのも乙なものです。

 

 大極殿朱雀門は訪れたけれど、東院庭園は訪れたことがない💦という人も居るのではないでしょうか?

 発掘調査に基づいた復原がされている庭園ですので、平城宮跡見学の際には必見ですよぉ(^^♪

 

 (参考資料)

    現地配付パンフレット

    現地案内板

長屋王邸跡(奈良県奈良市)

 

  【 長屋王邸跡 】

 

   所在地: 奈良市二条大路南1-3-1

 

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 昭和61年(1986)、現在の奈良文化財研究所により、大型商業施設建設に伴う発掘調査が開始された。

 

 そして昭和63年(1988)1月12日、出土した木簡から、この地が奈良時代初期の皇族政治家である長屋王の邸宅跡であると発表された。

 

 出土した木簡は、長屋王家を支えた家政機関に集まったものであり、約4万点を超えた。木簡からはそれまでの文献史料では解り得なかった王侯貴族の家の中の人や物の動きを具体的に明らかにするものであり、考古学史上重要な発見となった。

 

 長屋王家木簡は、奈良時代の公地公民制が大宝律令制定の後に完成に至ったという従来の定説を覆し、奈良時代を考察する上での第一級史料としてデータベース化されており、我々も気軽に見る事が可能である。

 

  奈良文化財研究所 データベース

      https://www.nabunken.go.jp/research/database.html

 

 長屋王は、天武天皇の第一皇子である高市皇子の長男として生まれたことから皇親として嫡流に非常に近い存在であり、出土木簡にも「親王」の文字が見られ、それを裏付けている。

 

 養老4年(720)、権勢を誇った右大臣・藤原不比等が没すると、舎人親王とともに皇親政治を行い、公民の困窮対策を講じて社会の安定化・律令制の維持を図った一方で、蝦夷・隼人の反乱への迅速な対応も行っている。

 

 長屋王治世においての重要な施策として開田が知られ、養老6年(722)には「百万町歩開墾計画」、養老7年(723)の「三世一身法」は教科書でも習うのでご存じではないだろうか。

 

 しかし、やがて藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)と対立し、神亀6年(729)、漆部君足中臣宮処東人の密告により、藤原宇合らの兵に邸宅を取り囲まれる。

 『兵防令』差兵条には20人以上の兵士を動員する際には天皇の契勅が必要であり、聖武天皇の許可を得てのことであった。

 『獄令』決大辟条には、皇親および貴族は死罪の代替として自尽を認める規定があり、長屋王は糾問の結果、自殺した。世に言う「長屋王の変」である。

 

 『続日本紀』には誣告と記されており、平安時代初期の朝廷では、長屋王が無実の罪を着せられたことが公然の事実となっていたようである。

 

 

 長屋王邸宅は、平城宮の東南隅に位置しており、現在でいうところの首相官邸の機能であったと思っていただければ良いのではないか。

   

 奈良そごう → イトーヨーカドー → ミ・ナーラと地元では長屋王の祟りとも言われる大型商業施設の遍歴である。大型商業施設は変われども、大地に刻まれた歴史というものは変わらない。それを感じさせてくれる史跡である。

 

 (参考資料)

   現地案内板

そろそろ「在宅特別科目習得試験」に向けても🖊

 

 第1回「在宅特別科目習得試験」は6/13(土)に行われます。

 

 先ずは必須科目である『史料学概論』4単位認定を目指して受験申し込みしました(^^♪

 

 通常であれば、設題10問への解答を作成し、試験当日までに必死に解答を暗記し、試験会場で記憶を呼び起こしながら記述するスタイルである。

 当然ながら、必死に覚えたことは時が経つにつれて記憶が薄れ、何とか解答を終える。時には全く記憶に留まっていなかった問題が出た瞬間に頭は真っ白。白旗を揚げることになる。

 

 しかし、今回は「在宅特別科目習得試験」である。

 

 持ち込み可であることは言うまでもなく、通常50分の試験時間ということではない。テキストはもちろん、自筆ノートも見まくれるのである。まさに不正天国ではないか。

 

 大学側もそうは甘くはない。しっかりと「採点担当教員はそのこと分かった上で採点しますからねぇ」と言ってきている。

 つまり、テキストもノートも見れるし、時間もゆっくりなんだから・・・わかるよねと圧力をかけてきたのだ。

 

 解答はしっかりしたものでなければ、評価厳しいよ💦💦ってことでしょう。

 

 ということで、通常の科目習得試験と同じように解答は準備した上で、さらに記述出来るようにテキストのどこに解答を導くヒントがあるのか把握しておくことが重要!

 

 「在宅特別科目習得試験」に向けてそろそろ本格的な準備に入ります(^^♪

 

 通常だったら合格で、在宅特別科目習得試験では不合格なんて御免ですからね💦

楽間の宝塔(群馬県高崎市)

 

  【 楽間の宝塔 】

 

   所在地: 高崎市楽間町字石田570 井野家墓地内

 

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 三基の宝塔は、かつて付近の笹薮の中にあったとされる。

 

 高さ1.6mほどで、いずれも塔身は短く、下部がすぼまった壺形である。

 

 高崎市北西部および井野川流域に分布が限定される傾向にあることから、榛名山山岳信仰や強い密教思想に裏付けられた石造物と考えられ、榛名塔に属する宝塔である。

 

 基礎正面には、正長3年(1430)・永享9年(1437)・嘉吉3年(1443)の銘文が刻まれていることが確認できる。

 

 高崎市内の中世石造物の多くが、土豪・長野氏関係の砦や居館跡周辺に分布しており、「楽間の宝塔」もそうした例の一つである。

 

 

 中世石造物にも宝篋印塔・宝塔・板碑などあるが、歴史研究の一分野である。地域ごとに特色ある石造物があり、石造物巡りをするのも楽しいかもしれませんね(^^♪

 

 (参考資料)

    高崎の文化財           高崎市教育委員会

    現地案内板