【 義民兵内の墓 】
義民兵内こと遠藤兵内は、享保10年(1725)、関村で代々名主を務めた遠藤家
に生まれた。
宝暦年間(1751~1763)になると、中山道を通行する人馬が増加し、それま
で奉仕していた伝馬を勤める人を出す助郷の村数が不足するようになっていた。このた
め中山道宿々の問屋は裕福な村役人層を資金元にして助郷の範囲を広げるように幕府に
働きかけていました。
幕府は明和2年(1765)の徳川家康百五十回忌忌法要を理由に中山道日光道中筋
の十里四方の村々に助郷の指名を行い、石高百石につき人足六人馬三疋、沿路の村々は
金六両負担するように命じている。
この時期の地域の農民たちは、水害によって米の収穫が減少し生活に困窮し、また徳
川家治将軍就任祝いのため来日した朝鮮通信使の接待費用として、石高百石につき金三
両一分二朱という臨時の税を払ったばかりの状況であった💦
明和元年(1764)12月、中山道本庄宿の助郷であった武蔵国秩父・児玉・大
里、上野国多野佐波新田各郡の農民一万八千余名が十条河原に集結し、相談の結果、江
戸まで越訴することとなった。
その数日後には本庄で上野信濃方面の農民と合流し、江戸へと向かいます。この報を
受けた幕府は関東郡代・伊奈半左衛門に取鎮めを命じた。伊奈は農民の助郷撤回の要求
を無条件で聞き届け、助郷拡大を撤回します。
農民たちは要求が聞き入れられると、日頃自分たちを苦しめている村役人や高利貸を
襲撃し二十数軒を打ち壊した。騒動は翌年の正月にようやく沈静化している。この一連
の騒動は伝馬騒動と称されています。その指導者の一人が遠藤兵内でした。
打ち壊しに参加したのは一部の先鋭化した農民であったが、幕府は兵内の獄門(いわ
ゆる晒首)をはじめ三百六十余名の処分を行い、兵内は明和3年(1766)2月13
日に斬首されています。兵内の首は三日間晒されたという。
明和5年(1768)、伝馬騒動に参加した人々の手によって、指導者であった遠藤
兵内を追慕供養するための宝篋印塔が建立されました。
平成元年(1989)、老朽化した宝篋印塔の大規模な改修が実施され、大きな傘部
の下にある塔身の内部が直径20㎝程の円筒形に刳り貫かれ、その内部から多数の古文
書(宝篋印陀羅尼、寄進札、血脈、戒名書)や木造小宝篋印塔が詰められた状態で発見
されています。
天下の義民は数多おりますが、遠藤兵内もその一人。伝馬騒動に関しては多少知って
いたが、美里町を訪れるまで義民兵内という人物については未知であった。
これまで城館遺跡ばかり訪れ、こうした古跡には注目してこなかった。しかし、地域
の歴史を学ぶ上で「義民兵内の墓」のように多くの史跡にも着目していかねばならない
と感じている。
(参考資料)
現地案内板