【 高野倫兼遺訓碑 】
室町時代中期から伊達家家臣として重用されたのが高野家で、十五代・高野光兼は刈
田郡平沢要害を与えられ、以降二十四代・高野知孝まで江戸時代を通じて平沢の地を統
治しました。
安永8年(1779)、高野家十九代・倫兼が沢乙村の村方役人一同に示した百姓の
心得を刻んだものが「高野倫兼遺訓碑」である。
倫兼は学識豊かな教養人で詩歌茶道に通じ、若年寄として仙台藩政に参画する一方、
刈田郡平沢村・宮城郡沢乙村の治世も良く行い、名君と讃えられた人物である。
石碑の建立年代は明らかではないが、倫兼は天明2年(1782)に薨去しているこ
とからこれ以降ということになります。
碑文には、
人の生きる道は孝悌の他にはなく、孝とは親孝行、悌とは兄を尊敬して従うことを
いう。農家であれば、粗末な服を着て蓑笠をまとい、露霜を犯して早朝から草刈を
し、昼は田畑を耕し、夜は縄をなえ。
裕福な暮らしをせず、農作に務め、早めに年貢を納めて親を安心させ、兄を助けて
耕し、弟であれば兄の使用人に身を落とす以外に他に生きる道はない。
物書きや読書、囲碁将棋などはせず、農作一筋に務めることこそ孝悌である。
といったことが記されている(要約です💦)
江戸時代は百姓の納める年貢中心経済であったため、幕府・諸藩は百姓の贅沢を禁じ
て農作に専念させる「百姓条目」と称される規制を定めて、年貢徴収の安定化を図って
いますが、「高野倫兼遺訓碑」はこれを要約したものであり、下達文が石碑という形で
後世に伝えられるのは極めて珍しく、貴重な石造物である。
本来は「平沢館跡」を目指していたのですが・・・結局到達できず💦💦ウロウロと
不審者のように車を走らせていたところ、発見したのが「高野倫兼遺訓碑」である。
この地を治めた高野氏に関する石造物であり、まっ、これで良いかと当地を後にしま
した(+_+)
(参考資料)
現地案内板