【 龍岡城跡 】 評価 ★★★
別 名: 五稜郭・桔梗城
所 在 地: 佐久市田口字龍岡
築城年代: 元治元年(1864)
築 城 者: 松平乗謨
区 分: 星形稜堡洋式城郭
現 状: 田口小学校・宅地
( 龍岡城大手門跡 )
三河奥殿藩は三河4,000石、飛地領として信濃12,000石であり、藩主の大給松平氏は代々陣屋格であった。
文久2年(1862)、参勤交代制緩和を機に、松平乗謨は幕府に信州に本領移転並びに新陣屋建設を申請。文久3年(1863)、幕府より許可が下り、信州へ本拠を移して田野口藩と改名した。
元治元年(1864)3月、家老・出井勘之進を普請奉行として着工している。
松平乗謨は和漢のみならず蘭学・洋学も習得した開明的な人物として知られ、幕府の若年寄・陸軍奉行・老中格・陸軍総裁に就任するなど逸材であった。
藩の兵制も文久元年(1861)に越後流からオランダ式に、さらに慶応元年(1865)にはフランス式に改めている。領民を動員して非常先手組という農兵隊も編成されている。
( 龍岡城枡形虎口 )
龍岡城築城の難工事は石垣であり、石は周辺の山で産出する溶結凝灰岩(佐久石)を使用し、信濃伊那高遠藩が洋式築城石工を積極的に養成していたことから、これを招き三年かけて建設している。
慶応3年(1867)4月、竣工祝いが行われ、龍岡藩と再改名された。しかしながら、堀・石垣も未完成であるとともに、内部建物も瓦の準備は完了していたものの板葺きのままであったと取り壊し目録には記されている。
前面の見える範囲は丁寧な仕事がされているが、外側や裏手は手抜きをして何とか体裁を整えた格好である。
御殿・藩士の小屋や番屋・太鼓楼・火薬庫の他、大手門・東側通用門は出来上がっていたのであるが、崩壊寸前であった幕府にあって、老中格・陸軍総裁などの要職にあった乗謨には、もはや築城に関わっている暇などなく、完成のためにつぎ込む費用もなかったと考えられる。
龍岡藩は築城・武士の転居・北越出兵等で4万両の借金が残されることとなった💦
( 龍岡城唯一の貴重な遺構である「御台所」 )
明治4年(1871)、廃藩置県によって破城となり、敷地の大半は小学校用地として使用されることとなった。
( 龍岡城「水堀」 )
星形稜堡を有する五稜郭は、フランスのヴォーバン元帥が17世紀に考案し、山から遠く離れた平野の真ん中にあってこそ、その機能を十分に発揮できる平城であるのだが、龍岡城五稜郭は山にほど近い地に建てられていることから、戦時には全く機能しなかったと思われる。
そのくらいのことは乗謨はわかっていたはずであるので、龍岡城五稜郭は乗謨が生涯一度の夢を託したものと言えるのではないだろうか。
日本に二つしかない五稜郭である「龍岡城跡」。続日本百名城にも選出され、俄然注目を集める城郭となった。しかしながら、観光面で十分活用されてはいない💦
佐久には「新海三社神社」や「旧中込学校」など注目すべき史跡も多々あるほか、鯉料理でも全国的に知られているのだが、いずれも点在している形であり、観光客の導線を今後考えねばならないだろう。
(参考資料)
現地配付パンフレット
現地案内板