【 三根山陣屋跡 】 評価 ★
別 名: 峰岡陣屋
築城年代: 文久3年(1863)
築 城 者: 牧野 忠泰
区 分: 陣 屋
現 状: 三根山藩址公園
三根山牧野家は、寛永11年(1634)、長岡藩主・牧野忠成が四男・定成に越後國蒲原郡内6、000石を分知し旗本寄合となったことに始まる。
このとき定成に分知されたのは十七ヶ村であったが、その後新田開発の奨励で新田村が多く成立し、四十ヶ村ほどになっている。
また、牧野忠成は次男・康成にも10、000石を分知しており、康成は諸侯に列せられて与板藩を立藩している。定成が6、000石であったのは、二人同時に大名にならないよう幕府に配慮したためと伝えられています。
定成は江戸定府となり、以後、忠清(定成実弟で養子)ー 忠貴 ー 忠列 ー 忠知 ー 忠義 ー 忠救 ー 忠衛 ー 忠直 ー 忠興と領地を相続している。
文久3年(1863)2月18日、牧野忠泰のとき、幕府によって石直しが行われ、6,000石高込高5,000石、計11,000石として定府すべしとの通達があり、諸侯に列することとなった。
大名となることは分知されたころからの悲願であり、忠知の代にも本家である長岡藩に幕府へのとりなしを願い出たこともあったのだが実現しておらず、遂代々の悲願が達成されたのであった。
これに伴い、三根山陣屋は築かれている。だが、時代は尊王攘夷の嵐が吹き荒れ、忠泰は幕命によって大坂・江戸を往来し、三根山に戻ることは叶わなかった。
慶応4年(1868)、戊辰戦争の際、忠泰は三根山に戻り微妙な小藩の立場に苦悩することとなる。
本家・長岡藩は奥羽越列藩同盟に参加し、三根山藩も宗家に近い立場を取るも、長岡が陥落すると新政府に恭順。庄内藩征伐に出兵している。
北越戊辰戦争終結後、荒廃に苦しむ長岡藩を救済すべく、三根山藩から米100俵ほどの義援米が届けられたのだが、長岡藩は人材育成を優先されたことが、その後戯曲化され「米百俵」の美談として世に伝えられることとなった。
明治元年(1868)12月、転封命令が出されたが、その後嘆願によって差し止めとなった。
明治3年(1870)、三根山の地名が丹後国峰山藩と紛らわしいとの新政府の意向で、嶺岡藩と改められた。
明治4年(1871)、廃藩置県によって嶺岡藩は廃藩となり、陣屋は廃されている。
なお、廃藩時の家臣団は…家老3名(三河国牛久保以来の譜代であった神戸・倉地・山本家)以下士分66名、卒族58名の124名であった。
三根山陣屋址は公園となり、遺構は残されていない。立派な城址碑や往時の藩邸を偲ばせる案内板があるのみである。
北越戊辰戦争戦趾としても訪れる価値は高い城館跡だと思います(^^♪
( 参考資料 )
日本城郭体系 7 新潟・富山・石川 新人物往来社
臨時増刊 歴史と旅 新編 藩史総覧 秋田書店
現地案内板