【 福島正則・正利供養塔 】
所在地: 港区三田4-11-26 正覺
元和5年(1619)、広島城修築が武家諸法度違反だとして、福島正則は信州・川
中島45,000石に減封され、寛永元年(1624)、失意のうちに没している。
正則の末子である福島正利は、父の供養のため快翁和尚を開山に迎え、赤羽の地に正
覺院を創建したのだが、正則家臣団は幕府の許しを得ないまま荼毘に伏してしまったこ
とから、福島家は改易処分されることとなってしまう💦💦
寛永2年(1625)、幕府は福島正則のこれまでの功績も踏まえ、正利に旧領31
12石を与えて旗本として取り立てる。正利は父・正則の遺品から、大御所である徳川
秀忠に正宗の刀・青木国次の脇差・木亘肩衝を、将軍である徳川家光には大光忠の刀・
大森義光の脇差・あふら茶入を、家光の弟である徳川忠長には切匁貞宗の刀・義光の脇
差・修理肩衝を献上してとりなしを願ったことが功を奏した結果といえる。
しかし、正利は寛永14年(1637)、37歳の若さで没してしまった。
右供養塔が「福島正則」供養塔で、寛永13年(1636)建立されたもの。左供養
塔が「福島正利」供養塔で、寛永14年(1637)建立されたものである。
なお、正覺院は慶安元年(1648)、赤羽より現在地に移転している。
供養塔は未指定であることから正確なサイズは定かではない。通常、現地踏査では採
寸も必須であるが、未指定だからといって勝手に採寸することは控えなければならない
ことは言うまでもない。
こうした街角の石造物にも歴史は存在する。現地踏査の際には見過ごすことのないよ
うにしたいものである。