日本史跡研究会 日々の徒然~埋もれた歴史を訪ねて~

日本各地の埋もれた史跡などをご紹介致します。また、日本史跡研究会の活動についてもご紹介しております。

崇栄山 陽雲寺(埼玉県児玉郡上里町)

 

  【 崇栄山 陽雲寺 】

 

   所在地:児玉郡上里町金久保701

 

 

 元久2年(1205)の創建と伝わり、創建当初は「唄樹山 満願寺」と称していた。

一説では弘仁11年(820)、慈覚大師・円仁によって開山したとされる。

 

 元弘3年(1333)、新田義貞鎌倉幕府打倒を祈願して不動堂を建立したことが

寺伝に残され、以来、新田勝軍不動堂などと称されたという。

 

 明応元年(1492)、この地の土豪・大畠昌広によって「金窪南城」が築かれてい

るのだが・・・寺の境内を城郭化したものであったのかは定かではない。なお、大畠氏

は大永4年(1524)、三代で滅亡している。

 

 戦国期には金窪城主・斎藤氏の厚い帰依を受け、天文9年(1540)、斎藤定盛に

よって諸堂が修復され、寺名を「崇栄寺」と改めている。

 

 天正10年(1582)、織田信長が本能寺で横死すると、その麾下であった滝川一

益と北条氏政との間で神流川の戦いが勃発。崇栄寺は兵火で焼失してしまう。

 

 天正19年(1591)、北条氏滅亡に伴って徳川家康が関東入封すると、武州金窪

に川窪信俊が養母である武田信玄夫人を伴い入封。

 

 信玄夫人は荒廃していた崇栄寺境内に居住していたが、元和4年(1618)、当地

で没したという。

 

 信俊はその菩提を弔うため、その法号である陽雲院をとって寺号を「崇栄山 陽雲寺」

と改称。元和5年(1619)には徳川幕府から御朱印5石が与えられた。

 

 

 城址としての「金窪南城」に関しては別トピで取り上げることにしますが・・・「畑

時能供養祠」に関しては既に取り上げました。

 

nihonshiseki.hatenablog.com

 

 この他にも武田信玄夫人供養塔、梵鐘など見どころ多い古刹です。

 

 (参考資料)

   現地案内板