【 畑時能供養祠 】
新田義貞四天王のひとりで、金窪城主・畑六郎左衛門時能は新田義貞に従い南朝方と
して各地を転戦。
建武5年(1338)、新田義貞が藤島の戦いで戦死した後も、南朝方の将として義
貞の弟・脇屋義助に従い北朝方の斯波高経の軍勢と各地で交戦するも、暦応4年(13
41)、越前国伊知地(現在の福井県勝山市伊知地)で討死した。一説では暦応2年
(1339)ともされる。
従臣・児玉五郎左衛門光信はその首級を携えて敵陣を突破し、故地であるこの地に葬
られ供養されたという。
後に光信も主君・時能の供養祠傍に葬られ石祠が建立されたことから、「畑児塚」と
も称されている。
「陽雲寺」を訪れたのは城館跡巡りを始めて間もなくのことである。実に20数年ぶ
り?のことだろうか。
再訪ってやっぱり大事ですよね。当時はあまり気にしなかったものを反対に気にする
ようになりました。今回は待ち合わせ時間調整でしたので、僅かな滞在でしたが改めて
じっくり再訪してみたいと思います(^^♪
(参考資料)
現地案内板