【 浅井畷古戦場 】
所在地: 小松市大領町つ137
慶長5年(1600)、会津の上杉景勝討伐に向かった徳川家康に対して、石田三成
らが挙兵し関ケ原の戦いが勃発する。
加賀の前田利長は生母・芳春院(まつ)を江戸に人質に出していた経緯もあり、東軍
に与するが、西軍の大谷刑部吉継の調略によって越前北之庄城主・青木一矩、加賀小松
城主・丹羽長重、加賀大聖寺城主・山口宗永を始めとする北陸の諸将は西軍に与するこ
ととなる。
この動きに危機感を覚えた利長は加賀南部や越前を制圧すべく、7月26日、25,0
00の兵を率いて金沢から出陣🏇
8月1日には丹羽長重率いる3,000の兵が籠る小松城を包囲した。しかし北陸無双
ノ城郭と称された小松城は容易に落城せず💦翌2日には押さえの兵を残し、大聖寺城の
山口宗永を攻めて落城させたのであった。
大聖寺落城の3日には、大谷刑部も6,000の兵を率いて越前敦賀に入城。利長留守
の金沢を海路急襲するなどの流言を流したことで、利長は8日金沢へ撤退を隠密裏に開
始し寺井の三道山まで撤退。殿は長連龍・山崎長徳らが務めた。
しかし25,000もの兵の撤退は長重の知るところとなり、長重は小松城から討って
出て浅井畷で前田勢を待ち伏せしたのである。
そして「浅井畷の戦い」は9日勃発した。長連龍の部下が本隊に合流しようと御幸塚
城から近道をし大領野を過ぎようとしたとき、長重配下の江口正吉ら伏兵が急襲!!
堀内一秀軒景広、鹿島路六左衛門、柳弥平次、八田三助吉信、長中務連朗、小林平左
衛門秀備、隠岐(沖)覺右衛門、鈴木権兵衛重國、岩田新助吉忠の九名が戦死したが、
長連龍・山崎長徳らの奮戦もあり、利長は無事に金沢に帰陣することが出来た。
北陸の関ケ原と呼ばれる戦いでは西軍優位であったものの、本戦で西軍は壊滅💦💦
結果的に西軍に与した諸将は戦後改易処分となってしまったのである。
さて、戦死した九名の墓が「浅井畷古戦場」に建立されているのだが、いずれもこの
戦いで倒れた方向に向かって建立されたと伝わっている。
堀内一秀軒景広の墓は万治3年(1660)に建立され、鹿島路六左衛門以下の八名
の墓は若杉組の十村役であった林八郎兵衛らによって寛政年間(1789~1801)
建立され、全て凝灰岩製である。
上杉景勝vs最上義光・伊達政宗の北の関ケ原、真田昌幸vs徳川秀忠の上田城の戦
い、黒田如水の九州の関ケ原などは広く知られているが、北陸でも関ケ原の前哨戦は行
われていたのである。
あまり知られていない「浅井畷古戦場」であるが、小松城址と併せて訪れてもらいた
いと思います(^^♪
(参考資料)
現地案内板