【 綿打入道太郎為氏館跡 】 評価 ★
別 名: 綿打氏館
所 在 地: 太田市新田大根町字綿打1000
築城年代: 鎌倉時代
築 城 者: 綿打入道太郎為氏
区 分: 館
現 状: 大慶寺
中世、この地は綿打郷といわれ、新田本宗系の綿打氏による所領支配が行われていた。
鎌倉時代、新田政義二男の家氏の長男・綿打太郎為氏によって館を構えたとされる。
元弘3年(1333)、新田義貞挙兵の際には綿打一族も出陣したと考えられるが、明確な史料は残されておらず、その動向は不明である。
南北朝内乱では、新田義貞に従い、一族の大舘氏とともに南朝方の重鎮として活躍したことが知られており、『太平記』には建武4年(1337)、綿打刑部少輔氏義・大炊助氏頼父子が越前國金崎城で討死したと伝えられている。
「大友文書」「深堀系図証文記録」によれば、建武5年(1338)、新田綿打某が北畠顕家とともに摂津國堺浦で討死したことがわかる。
「蠧簡集拾遺」によれば、暦応3年(1340)頃、花園宮を奉じた新田綿打入道が土佐で活動していることがわかっている。
綿打一族の多くは南朝に殉じているが、一族は滅亡したわけでなく、綿打郷を保持し続けたようであり、15世紀中葉に記された「新田庄知行分目録(正木文書)」に、「一 綿打郷 綿打九郎知行」とある。
その後の動向は定かではなく不詳である。
( 自販機わきにポツンと佇む城址碑 )
ぼたん寺として知られる大慶寺が城館址である。約150m四方の規模の方形館であったようだ。
『群馬県古城塁址の研究』では土塁が残されているとあるが、近年の都市化で破壊が進み、現在では確認出来ない。
大慶寺は、治承4年(1180)、新田悪源太義平室の新田義重娘(妙満尼)がこの地に義平の菩提を弔うために一庵を結んだことに始まるとされ、その後、綿打氏館が構えられたとされている。
明徳5年(1394)、空覚上人によって開山されたというが、この歴史も伝承の域を出ない。
「鶏足寺世代血脈」では、了安入道なる人物が寺地を寄進したとされるが、了安入道は他史料には見られない人物で、おそらくは綿打一族と推測される。
空覚上人の歳から考えると、大慶寺創建は延文4年(1359)頃から応安3年(1370)頃と考えられる。
以上のように、大慶寺創建に関しても、綿打一族の歴史に関しても不詳なことは多々あるが、綿打氏の館はこの地に構えられていたのは事実であろう。
(参考資料)
『群馬県古城塁址の研究』 上巻 山崎 一 群馬県文化事業振興会
『新田町誌』 第四巻 特集編 新田荘と新田氏 新田町誌編さん室
現地案内板