【 関流算術の碑 】
小林喜左衛門良匡は、関流算術の大家であり、幕末における激動混乱のなか、青年た
ちに算術を通して善導し、質実剛健で真に世の中の為になる人物の育成に一生を捧げた
人物である。
良匡は寛政元年(1789)、武州那賀郡木部村(現在の美里町木部)に生まれ、幼
少より聡明で、家業のかたわら学問にも精を出し、なかでも算術に興味を持ち、独学で
研究を積み、遂には関流算術の奥義を極めています。
当初は近隣の青年を自宅に集めて算術を教えていましたが、良匡の人柄を慕って教え
を請うものが次第に増加。その後、遠隔地の青年のために泊りがけの出張教授も行って
います。
「関流算術の碑」は明治5年(1872)の春、門人有志によって良匡への謝恩の意
から建立されている。
碑の表面には、良匡の書いた建碑のいわれと和歌が刻まれ、裏面には門人129人の
名が記されている。門人は児玉、秩父、男衾及び幡羅など広範囲に及び、良匡がいかに
優れた指導者であったかが伺える。
和歌は 「むさしのや おくある道は はかるとも
かぞえつくさじ くさの之のつゆ」
武蔵野の広野といえども算術をもってすれば計算することができるけれども、人生と
いうものは、儚いもので、あたかも草の葉の先端に露が溜まって、きらきらと無数に光
っているが、水玉が数えきれないうちにぽろろんと落ちて、乾いて消えてしまうよう
に、人の生命もまた、算術という学問もまた、決して終りというものではない。
「関流算術の碑」は指定史跡ではないのだが、美里町によって立派な案内板が設置さ
れている。こうした未指定の史跡を拾い上げ、俯瞰的に地域のストーリー性を構築する
ことが観光考古学の視点には重要である。
その意味で美里町の取り組みは見習うべきであろう。
(参考資料)
現地案内板