道の駅「しもにた」で購入したのが、『鏑川かわらの石 博物館』。
ぐんま地質・岩石研究会なる団体が製作販売しているようだ。
花崗岩、安山岩、チャート、砂岩、石灰岩、緑色片岩など9種の鉱物が入っている。
考古学でもなじみのある鉱物なので、学びの一助となるだろうと思い購入した。
こうしたモノは、博物館等のミュージアムショップで販売すればより一層良いのにな
ぁ。これからもこうした商品を各地で発見していきたいと思います(^^♪
秋分の日(祝)、世間はお休み。しかし、某はブログ更新がこの時間になるまで働き
ましたぁ(+_+)
こんな時間まで働いてくると・・・、正直もぉ寝たい💦
がっ、日々の学びのリズムを崩せば、リズムを取り戻すのに一苦労します(>_<)
たとえ僅かな時間であっても、何かをすることが大切!!
例えば、未読の本を数ページでも読む。テキスト学習1ページでも進める。なんでも
良いんです!!コツコツ学びを継続することが、いずれ大輪を咲かせるんですぅ。
通信教育の難しさの一つが、仕事と学びの両立。仕事が忙しければ、その分学びに費
やせる時間は削られます。それでも学びを継続させねばなりません。
あっ、そういえば今書き進めている論文。コツコツ書き進めていたら、すでに10
頁。卒業論文が20頁でしたから、すでに半分書き進めたんですねぇ。奈良大学通信教
育部卒業にも、博物館学芸員資格取得にも関係ないことなんですが、将来的に学術論文
を学術誌に寄稿したいと思っているので、これも一つの学びの形です。
学ぶということは、コツコツ継続あるのみです(^^♪ 今夜は1時間でも30分でも良
いので学びを進めます(^^♪
【 笹山遺跡 】
所在地: 十日町市中条乙3081
信濃川右岸で北を水無川、南に才明寺川に挟まれた緩やかな河岸段丘上に立地した縄
文時代中期から後期、中世の集落遺跡である。
昭和56~57年(1981~1982)、笹山野球場建設に伴う発掘調査や昭和6
0年(1985)の陸上競技場建設に伴う発掘調査など、平成2年(1990)まで7
次に亘る発掘調査が実施されている。
平成14~16年(2002~2004)には遺跡範囲確認調査が、平成23~25
年(2011~2013)には3次に亘る学術調査が実施されている。
これまでの調査によって、縄文時代中期中葉から後期初頭の竪穴住居跡112基(う
ち炉跡105基)、土坑5基、配石遺構1基、埋設土器36基などの遺構を検出してい
る。また国宝にも指定されている深鉢型土器57点(うち火焔型14点、王冠型3点)
を含む多数の土器、土偶、石器などの遺物も出土している。
集落は環状ないし馬蹄形に配置され、中央部には埋設土器が検出しており、土器も東
北・北関東・中部高地・汎北陸系といった他地域の土器群も多数出土している。これは
集落が安定した定住生活を示しており、採集や漁撈、狩猟といった生業に適していた地
であり、他地域との交易も行われていたことは明らかである。
さらに中世の遺構として、掘立柱建物跡27基、鍛冶工房跡2基、井戸跡1基、溝跡
1基などが検出したほか、青磁・白磁、陶器(珠洲焼、瀬戸・美濃焼)、土師質土器、
硯や砥石、鉄鏃や短刀、北宋銭などの遺物が検出した。遺物から鎌倉時代から戦国時代
にかけての豪族(大井田氏あるいは中条氏か?)居館を核に展開した武家集落跡と推定
されている。
現在、市営陸上競技場や笹山野球場などが建設されているが、未発掘の範囲には復元
竪穴住居2基が設置された遺跡公園となっている。
十日町市立博物館に展示されている国宝「笹山遺跡出土深鉢形土器」を見る前に、是
非とも出土地である「笹山遺跡」は見学してもらいたいものである。
毎年開催されている「笹山じょうもん市」の時以外は、本当に穏やかな広場である。
現地に立ち、周囲を見渡すことで往時の生活を感じることも現地踏査の重要なポイント
の一つであるように思う。
(参考資料)
現地案内板
コロナ感染者も次第に減少に転じている現在、まだまだ自粛という可能性も秘めつ
つ、三密回避・不織布マスク着用・手指の消毒などの感染症対策を万全に整えて、日本
史跡研究会 令和3年度 第1回現地踏査「世界遺産・宇治の地を巡る~街角の石造物に
注目して~」を開催致します。
日時は、恐らく緊急事態宣言が解除されているであろう10月23日(土)。京阪宇
治線・三室戸駅改札前にAM10:00集合。
現地踏査(予定)地は・・・、
① 宇治川太閤堤跡
② 宇治橋断碑
④ 宇治上神社
⑤ 宇治川先陣之碑
⑥ 浮島十三重石塔
⑦ 平等院
⑧ 上林記念館 となっております。
通常であれば、興味のある方の御参加可能としていますが。そこはコロナ禍中💦
今回の現地踏査は、研究会参加者であっても関西支部限定としておりますm(__)m
今後の状況次第では当然中止という決断に至ることもあるかと思います。がっ、徐々
に状況を勘案しつつ活動を再開しなければ、いつまで経っても活動再開は覚束ない💦
ということで、とりあえず開催要項は発表しておきます。
実際に踏査を開催するかは・・・状況次第です💦💦💦
【 砥沢の砥石 】
南牧村の特産品である「砥沢の砥石」。道の駅「オアシス南牧」内で販売されてい
る。
砥石は他の岩石・鉱物資源よりも生活に密接した岩石である。縄文時代の遺跡からも
砥石が出土しており、南牧産出の砥石が利用されたことは明らかである。
鎌倉時代、青砥藤綱が鎌倉幕府執権・北条氏に砥石を献上したというが、本格的な採
掘が行われていたのかは不明である。
売買に関する天正5年(1577)の古文書が存在することから、採掘は16世紀半
ばには開始されていたことは明らかであり、武田氏の西上州侵攻頃に開始されたと考え
られる。良質な砥石は軍事物資として重要視されていたとは思うが、武田晴信は金鉱脈
の踏査中に発見したと推測されている。後に佐渡金山奉行となった大久保長安は武田旧
臣であり、優秀な鉱山開発技師であった。もっとも砥沢の場合は、地元の住民からの話
から鉱脈を発見出来たようではあるが・・・。
江戸時代に入ると、徳川家康は砥沢を直轄地とし、市川氏を代官として本格的な採掘
を行っている。砥沢の市川氏も元は甲斐國市川郷出身であり、武田氏が南牧の地に派遣
されていたようである。
砥石の搬出は大変であったようで、南牧川や鏑川では水量不足で水運は出来なかった
ことから、砥沢から下仁田・富岡を経て倉賀野宿まで馬で運ばれ、その後船で江戸に運
ばれたようである。
富岡は世界遺産・富岡製糸場のイメージから生糸で栄えたと思われがちであるが、砥
沢の砥石運搬の中継地点であったことが契機となり発展したとされる。
時代が変わり、明治・大正・昭和になっても「砥沢の砥石」は全国有数の砥石産地と
して知られていたが、次第に産出量は減少している。
「砥沢の砥石」のように特産品にも歴史はある。今後もこうした品にも注目していき
たいと考えています(^^♪
(参考資料)
砥沢の砥石:地質と歴史 佐藤興平 群馬県立自然史博物館紀要
奈良大学学友会・千葉ブロックでは、令和3年(2021)10月3日(日)、秋の
遺跡等見学会を実施致します。
コロナ感染者が減少傾向にある現状、実施の方向で準備が進められております。しか
しながら、今後の状況によっては不確定の要素も含んでいることを御了承ください。
今回の研修では、木更津市の「金鈴塚古墳」、「稲荷森古墳」と出土遺物(国宝であ
る金鈴、環頭大刀)が展示されている「金のすず博物館」などを見学いたします。
「金のすず博物館」には、手古塚古墳出土の三角縁神獣鏡、菅生遺跡出土木製品など
が展示されており、同博物館学芸員による解説付です。
奈良大学通信教育部在校生も参加可能ですので、千葉在住の方は如何でしょうか。
なお、本遺跡等見学会は事前申し込みが必要ですので、ご注意下さい。
【 高梨氏館跡 】 評価 ★★★
別 名: 中野小館・日野城
所 在 地: 中野市中野小舘1069-4
築城年代:
築 城 者: 中野氏
区 分: 平 城
現 状: 高梨館跡公園
平安時代末、この地は中野氏が栄えていたが、鎌倉時代後半頃より、市河氏がその所
領の多くを受け継ぎ、その後は夜交氏が所領していた。
館はこの地域に勢力を有していた中野氏の居館として構えられたのが最初であると考
えられるが、築城時期は定かではない。
『尊卑分脈』によれば、高梨氏は高井郡井上の清和源氏頼季流の井上氏一族である井
上盛光が高梨に居住し、高梨氏を名乗ったとされる。その後、本郷高梨氏と山田高梨氏
に分流し、山田高梨氏からは木曽義仲四天王の一人・高梨忠道を輩出している。一説で
は古族阿部氏の末裔にあたるとの説もある。
南北朝時代、高梨経頼は北朝方として活躍。高梨氏は、応永7年(1400)の大塔
合戦に加わったほか、寛正4年(1463)、上杉右馬頭との高橋の戦いで勝利し大熊
高家・新野朝安らを滅ぼしている。更に永正7年(1510)、長森原の戦いでは関東
管領・上杉顕定を討ち取り、越後守護代・長尾氏との関係を深めている。
永正10年(1513)、高梨政盛が没すると、跡を継いだ高梨澄頼に対し、中野氏
残党や夜交氏・小島氏が反乱を起こすも、家臣・草間大炊助が鎮圧。この時期に本拠を
中野に移したようである。
( 礎石建物跡は平面表示されている )
甲斐の武田晴信が北信濃まで侵攻の手を伸ばした弘治年間(1555~1558)に
は、高梨政頼は一時飯山城に退去し、上倉・奈良沢・泉氏ら地元土豪衆を統括するが、
永禄4年(1561)には春日山城に移っている。
武田氏滅亡後の天正10年(1582)8月、北信四郡を上杉景勝が領有すると、高
梨弥五郎頼親は安源寺周辺2,000貫を安堵されるのだが、館には一族の小島氏がおり
入城が叶うことはなかった。天正18年(1590)、小島氏が高梨氏に館を譲り渡し
たことでようやく故地に帰還することとなる。
慶長3年(1598)、上杉景勝の会津移封により、高梨氏もこれに従い、館は廃さ
れた。
( 庭園跡 )
館跡は単郭方形館であり、東西約120m、南北約100m。土塁・堀が全周し、内
部は東辺78m、北辺86m、西辺60m、南辺86m。虎口は4ヶ所あるが、公園入
口の南虎口は後年のものであり、大手は西辺南側のものである。
堀は8m前後の空堀で、東堀は薬研堀で内側に土留めの石積が見られる。南面土塁に
は築地塀も残されている。北西隅と南西隅は櫓台と推測され、往時は隅櫓があったと考
えられている。
( 井戸跡 )
昭和61年(1986)から平成4年(1992)にかけて、公園整備事業に伴う発
掘調査の結果、建物は2~3回建て替えられていることが明らかとなっている。
高梨氏館跡は、中世城館遺跡の保存と活用を考察する上で好例の一つである。庭園跡
の復元という一点を取り上げても、豊後・大友館跡などとも比較検討可能であり、学術
論文に取り上げられよう。
周辺遺跡等との面的活用が今後検討されるべき城館遺跡であろう。
(参考資料)
信濃の山城と館 8 水内・高井・補遺編 宮坂武男 戎光祥出版
現地案内板