【 穴八幡古墳 】
『新編武蔵風土記稿』には、寛文年間(1661~1673)に地域の農民が塚を崩し陸田にしようとしたところ、石室が現れたので取りやめたという記録が残されているほか、嘉永6年(1853)渡辺渉園が著した『秩父日記』にも石室発見の顛末や被葬者にまつわる説話が紹介されており、近世後期には古墳であることが知られていた。
昭和63年(1988)、発掘調査が実施されるまでは円墳と認識されていたが、調査の結果、七世紀後半に築造された方墳であることが明らかとなっている。
( 周堀 )
一辺28.2m、高さ5.6mの二段築造の墳丘が、二重に巡る周堀(内堀:約40m、外堀:61.4m)を従えている。
埋葬主体部は、緑泥石片岩の切石を組んだ横穴式石室で、全長8.2m、平均幅1.7m、高さ1.9m。
羨道・前室・玄室の三室構造となっており、敷石は白い玉石である。
特筆すべきは石室の地盤沈下防止のため、寺院基壇築造で用いられる版築による掘り込み地業が施されている。東京都府中市「武蔵府中熊野神社古墳」にもこうした地盤改良が見られる。
また石室入口付近には、建治4年(1278)2月2日と刻まれているのだが…手持ちの資料では意味は不明であった(報告書等後日調べる機会があれば調べてみたいと思う)。
石室は早くから開口していたことから、内部の棺や副葬品は既に持ち去られている。発掘調査によって前庭部や周堀から、須恵器の壺や瓶、土師器、蕨手刀の鞘に装着する足金物などが出土している。
『季刊考古学 別冊15・武蔵と相模の古墳』では被葬者として男衾評の評造と推測しています。また、穴八幡古墳のような横穴式石室は比企・男衾地域には例がなく、行田市「小見真観寺古墳」の例があるのみです。
(参考資料)
小川町の歴史 資料編1 考古
現地案内板
季刊考古学 別冊15 武蔵と相模の古墳 雄山閣