【 蛇穴山古墳 】
利根川の西方約600mに位置する総社。総社地区は古代上毛野の文化的・行政的中枢と考えられる地域である。
「蛇穴山古墳」は一辺43m、墳丘高6.5mの二段築成の方墳である。築造時期は7世紀末と推定されている。
昭和50年(1975)、石室と周堀の、平成21年(2009)、周堀の発掘調査が実施され、周堀外側に外堤を設け、さらにその外側にも周堀を設ける二重の周堀を持ち、外堤内外面には葺石が施されていることが判明している。
堀を含めた一辺は82m、内側の周堀は幅11m前後、深さ1m、外側の周堀は幅3m、深さ50㎝。
墳丘南側に開口する埋葬部は両袖型横穴式石室で、前庭部から直接玄室につながる構造であり、截石加工による輝石安山岩の一枚岩を用いて天井、奥壁、左右の壁が構成され、天井石や奥壁の端部はL字状に切り込まれ、両側の壁と組み合わせるように加工されるなど、非常に精緻な造りである。
石室前面には羨道部痕跡とも考えられる幅1.57m、長さ1.07mの一区画を配し、その前に奥幅2.12m、前幅6.30m、奥行き3.09mの台形プランの前庭部があり、両側壁には切石が使用されている。
玄室は全長3.0m、幅2.57mで、漆喰塗布の痕跡も見られる。
「蛇穴山古墳」は『日本書紀』に登場する上毛野田道の墓という伝説がある。上毛野田道は豊城入彦命の子孫で新羅を征伐した人物であり、帰国後は東北の蝦夷征伐に尽力するも戦死。その後「蛇穴山古墳」に葬られたと伝えられている。
勢力を取り戻した蝦夷が上毛野田道の墳墓を掘り起こしたところ大蛇が現れ、蝦夷を殺した伝説が伝わっている。
(参考資料)
群馬の古墳を歩く 前原豊・小島敦子 みやま文庫
現地案内板