【 巻館跡 】 評価 ★
別 名:
築城年代:
築 城 者:
区 分: 平 城
現 状: 宅 地
発掘調査は行われていないことから、館の実態については不明な点が多い。
明治時代の地籍図から、東西約160m、南北約135mの大規模な方形館であったと推定されています。
周囲には幅12m前後の堀や土塁が巡っていたと考えられています。
かつて館跡からは、十五世紀代の珠洲焼の壺、中世の土師器皿(いわゆる、かわらけ)が採集されていることから、有力者の居館であった可能性が高い。
※ 威信財やかわらけの出土から、そこでは家臣を集めての宴が推測されることによる。
築城年代や築城者は不明であるが、天正12年(1584)4月、新発田因幡守重家との新発田合戦の際、三条城将・甘粕長重が上杉景勝に宛てた書状に「真木の地之事」と記されている。
この書状には、真木之地が天神山城主・小国氏家中の者によって守備されていたことも記されています。
寛政元年(1789)の「御巡検様御案内手控帳」に、天正14年(1586)、天神山城主・小国氏家臣の西山庄左衛門の名が、巻城主として記されています。
慶長3年(1598)、上杉景勝が会津120万石に移封されるにあたり、西山庄左衛門も同行し、まもなく巻館は廃されたと考えられています。
慶長5年(1600)の「巻村内検地帳」によれば、城館に関する地名(にしくるわ・土るいの上など)の他、よこ町・町ノ下などといった地名が記されている。
このことから、規模は不明であるものの、館に接して町場が形成されていたことがうかがえる。
城址碑は某コンビニ店にほど近い、県道に面して設置されている。この県道、思った以上に交通量が多いので撮影には注意が必要である。
市街地化しており、遺構は残されていない。
(参考資料)
新潟県中世城館跡等分布調査報告書
現地案内板