【 檜田城跡 】 評価 ★
別 名:
所 在 地: 前橋市高井町1丁目字檜田
築城年代:
築 城 者:
区 分: 平 城
現 状: 工業団地
八幡川左岸5mの台地上、200m四方に構えられた城館であり、蒼海城・勝山城の支城として機能した。
築城年代・築城者は不明であるが、勝山城主・関口政次の二男・福島政則の居城であったという。
天文12年(1543)、武田氏によって攻略され焼き払われたというが、この時期の武田氏の動きは東信濃の長窪攻めを行っているように、この地にまで武田の勢力は拡大してはいないことから誤りであろう。
上野国内でも大きな戦乱があったことは知られておらず、土豪の小競り合いの中で焼き払われたとも推測される。
永禄9年(1566)、武田氏の上州侵攻によって、箕輪城・勝山城とともに落城し、廃城となった。
さて、このことも疑わしい。この時期、武田氏は箕輪城を攻略してはいるものの、その勢力は西上州に留まる。厩橋には上杉謙信麾下の北条高広が城主として布陣しており、上杉謙信も上州・金山城攻めのために度々越山していた。
すなわち、武田・上杉両軍が対峙していたわけであり、箕輪城の長野氏を攻略することに集中したい武田勢がこの地の小城を攻め落とすだろうか?
長野氏救援のために、厩橋から兵を繰り出し、小競り合いはあるだろうが、上杉勢との全面対決は避けたいであろう。
総社地区史跡愛存会によって案内板があり、上記したことが記載されているのだが💦
『箕輪軍記』には永禄6年(1566)に上杉に属した42城が落城、その他23ヶ所も落ちたことが記されていますが、いずれも西上州(高崎市内)であり、厩橋周辺の城を攻略したことを想像させる記述ではありません。
檜田城の歴史は詳細不明というしかないでしょう。
また、遺構も工場用地となってしまい壊滅。案内板があることがせめてもの救いです。
(参考資料)
群馬県中世古城塁址の研究(上) 山崎一 群馬県文化事業振興会
口語私訳 箕輪軍記 箕輪城奉賛会
現地案内板