【 矢島砦跡 】 評価 ★
別 名:
所 在 地: 高崎市浜川町字矢島
築城年代:
築 城 者: 矢島久左衛門貞勝
区 分: 平 城
現 状: 宅地・耕地
築城年代は定かではないが、長野氏旗下の矢島久左衛門貞勝(久右衛門定勝とも記さ
れている)の館城して築かれたとされる。
貞勝は武田氏の上州侵攻の際、松井田城の後詰や箕輪城攻防戦で数々の武功を挙げた
ことでも知られるが、永禄9年(1566)、武田勢の前に砦は陥落。貞勝は浪人とな
るも、武田信玄に召し出され、箕輪城代・内藤昌豊に属したという。
『甲陽軍鑑』には、「是は長野信濃守代より上杉家にもためしまれなるおぼえの衆な
り」と記されている。
武田氏滅亡後は武家を捨て吾妻平川戸に隠棲したとされ、『吾妻伝説』には「上原氏
本名は近利、姓矢島氏、上原は母方の氏なり。先祖矢島氏は箕輪領の人にて、慶長二ー
三年のころ岩櫃城下に来る。其節平河戸町に川井半次郎という人の家中代官へ申込み、
暫く借宅し、その後、住宅を求め濁酒を造り商売す。郷中の人今に言伝へて、矢島はた
しかなる人故、人品行跡、甲陽軍鑑等に矢島久左衛門と名ある程の人とは実にも思はる
と褒美す」と記されている。
昭和54年(1979)、圃場整備事業に伴う発掘調査が実施され、東西幅約150
mの外堀と、その内側に堀の外辺で東西100m、南北108mの内郭が検出されてい
る。内郭はほぼ全面発掘され、掘立柱建物跡33、柵跡10、井戸跡17などの遺構も
検出し、中国青磁や美濃窯の陶器などの威信財遺物も検出されている。
貴重な遺構と遺物が出土した「矢島砦跡」であるが、現在は一面の耕地であり遺構は確認出来ない。
(参考資料)
新編 高崎市史 資料編3 中世Ⅰ